個人は、精神的自己と物理的自己の板ばさみに遭い、
かつ、自己と物理的環境の板ばさみにも遭っているが、
生物はもれなく物理的環境において生存闘争を行うところ、
私は、精神的自己を物理的環境へ、物理的自己の細腕をもって、
いかに提示してくべきなのか?提示することが出来るのか?
いや、それとも、精神的自己は、物理的環境に適応するべきか?
するべきか?
言うまでもない。
適応しないとは、個体の死を意味する。
個人が社会に対して多勢に無勢である以上、適応しないという選択肢はないのだ
だが、人間の心理は不思議だ
思い通りに事を運ぼうと思えば思うほど、
その通りの結果が得られないというのは?
ショーペンハウアーも仏教も、「欲張っているからだ」と言った
キルケゴールは「悩むべきだ」と言った
マルクスは「そんな社会はクソだ」と怒った
カミュは「それでも生きよ」と言った
個人の社会参画(労働など)の有り方について、
とことんまで具体的に論じた著作は歴史上多くない
そりゃそうだ
自分の人生は自分で生きねばなあ
・・・大体こんなことを話していたという気がする。