yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

めそめそした模倣

何でも書いて良いと
私は自分に言って聞かせるのだが
これがどうしてか難しい

いつの間にやら、自分が作るべき作品の期待値は無意識の内に吊り上がっている。そして私が無力感とか、制作活動へ向かうことへの恐れとかを抱くとき、多分そういったことが起こっている。
 こうなれば、言葉は役に立たない、暗示は役に立たない。実感に欠けた抜け殻は、風吹けば飛んでゆくのだ。

 私は、自分がつまらない書き手であるとか、ヘタな演奏家であるとかいうことを恐れているのである。そして、その恐れは私の作品を小さな箱に閉じ込めてしまっている。どこか、伸び々々とした感じが無い。内から湧き上がってくる来るものが、恐れにさえぎられる。
「みっともないのではないか?」
「これを知り合いが鑑賞したら、私に幻滅するだろう」

 こうして一社会人として、作品を公的なものとしてデザインしてしまう罠に掛かる。もはやそのとき、私は芸術家たることを中断している。私は酷くみじめで不出来なデザイナーになってしまっている。結局のところ、恥を想像して恐れるあまり、芸術を中断した挙句にヘタで中途半端なデザインをやるから、作品がめそめそしている。

 だが私はここで敢えて問うてみよう。それは一体悪いことなのだろうか?
今、思い出したのはイギリスのロックバンド、The Rolling Stonesキース・リチャーズが自らのバンドのデビューアルバムを評して「めそめそした模倣」と言ったことである。誰の模倣かといえば、50年代のロックンロールを形成した先輩アーティスト達と、ロバート・ジョンソン等、それ以前のブルースマン達だったろう。(私はロックンロール以前のブルースマンを彼以外に知らない。)ビートルズのような音楽はビートルズ以前には無かったし、ローリングストーンズのような音楽はローリングストーンズ以前には無かった。そんな彼らも最初は不出来な模倣から始めて、その後独自の展開を見せた。
 音楽は不思議だなあ。なぜなら、それ以前には無かった感覚を与える作品は、まちがいなく新しい作品なのだけれど、「何が?」「どこが?」と問われると全く答えに窮してしまうからだ。
 だから、新しい感じを与えるのは、その秘訣は決して作品の形式自体であるとか、個々の要素自体とかに潜んでいるのではない。
 芸術の歴史は、社会の歴史、作者個人の歴史との関係で語られる。私が見い出してきたのは、個人の精神は今も昔もあまり変わらないが、社会的環境と、それに伴う社会的現実(「世間の言い分」と言い換えてもよい)は移ろいが激しいということである。
 新たな作品は必ず、既存の社会的現実にさからって登場してくる。それは、個人の精神と社会的現実が一致しないことを反映している。つまり、新しい感じを与える形式とか要素はたぶん、その時代の社会的環境とか社会的現実への反抗として呈示される為に、必然的に生まれて来るものなのだ。
 
 まあだからつまり本題に戻ると、作るしかねえってことだ。箱に閉じ込められている内は、「めそめそした模倣」だよ。