yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

私の教育偏見

 教育とは、ある人が他の人に影響を及ぼす事を言う。コミュニケーションを通して人と人が身心に影響を及ぼし合うこと、これが教育である。
 教育という現象をこれだけ広義に捉えることには意味が有る。教育は、意識的に行われる場合も無意識的に起こる場合も有るが、後者の教育は常に過小評価されているように感じる。教育が、与えた影響の質を考慮することで評価を受けるべきである以上、先の2種類の教育に人が受ける影響について論じることなしに、論考の範囲を意識的教育だけに狭めてしまうことは不誠実である。
 意識的な教育とは、教育しようとする者が教育を受ける者に対して、ある目標を設定して、それを達成させようと支援する教育である。
 これの特徴は、教育をしようとする者と受ける者にはっきりと分かれるということ、その目標が教育をしようとする者によって設定されるということ、教育をしようとする者が受ける者に対して、目標を達成させようと積極的に働きかけることである。
 この際、被教育者の成るべき姿は教育者によって規定され、被教育者はその姿に成ることを絶えず要求され続ける。

 日本の現代の教育は、指導者が子供の集団における権力を握り、子供を社会組織の中で効率良く働くことが出来る「立派な社会人」に育て上げることに終始している。そこでは、個性は社会組織に役立つ為の種として捉えられており、自己実現の為の種とは捉えられていない。スガタ・ミトラは、現代の教育システムは優秀な軍人を作るために構築されたものであり、子供の真の知性や精神を育むためのものではなく時代遅れだと指摘していた。
 また、学習塾においては子供の偏差値を売る形のビジネスが行われており、受験勉強に上手く適応出来ない子供は学習塾の問題案件となる。こういった偏差値ビジネスの背景には、日本の親の「偏差値が子供の幸せへの手っ取り早い切符だ」という根絶し難い誤解が有り、スマートフォンに氾濫する低俗かつ限定合理的な、学習と社会適応と収入に関する情報によりそれは強く「根拠づけられる」という有様である。

 親は子の幸せを強く願う。そして、最も身近ではっきりとした「幸せに向かう勝利」は受験戦争に勝つことだと強く信じている親が多い。そして、いわゆる教育ビジネスは親を顧客とし、子供の受験戦争における勝利を売るというものだ。これは、子供の自然で多様な興味に基づいて学びを深めてゆくという教育たり得ない。
 ビジネス的な観点から、教育を生業とする者が商品として売るものは、顧客―親―の満足である。一方で、教育者としての教育者が目指すものは、生徒が学ぶことの本質を心身で感じ、真実に肉薄し、自分の良心や誠実さに基づいた生活を創作するために、また、自分の人格をより穏やかで素晴らしいものにしていくために、自分の生活や社会・世界といった事柄について、より広範で深い視座を得ることである。
 そこで問題となるのは、くだらない勲章を子がつかみ取ることを子が自分で欲するよりも親が欲し、子の興味関心を根こそぎにしてしまう親である。また、子自身が自分の意志て判断することを拒み、親自身があらかじめ用意した解答に沿って子が行動することを余儀なくさせる親である。