yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

経済的循環と個人の精神について(後半)

我々にとって生存上都合がいいとか、安らぐとか、気持ちがいいといった理由で道具は生産されるはずだ。文明は一個人による創作ではなく、多くの人々が道具の断片を作り出し、物理的に、また教育を通して精神的に蓄積してきたものの総体である。だから我々はその道具を調べて、より良く使いやすいように改造を施すような場合にはそれを生存の前提とか基盤としてではなく、文字通り道具として捉えなければならない。

 私が人間の行動に関する統計的な分析を好まないのは、総和をとって平均したときに出現する人間は、人間ではないからである。確かに人間は1つの類である。だから、共通点がある。だがその類的な特性は行動の平均で求められるようなものではなく、むしろ自己と他者との共感でもって求められるようなものだと、私は言いたい。

 文明が人類による道具である以上、我々はそれを運用する主体である。だが、既に存在する文明を自然と見做すことは社会の構成員としての生存に有利に働く。だが文明の中で道具として使われるような人間は、もはや人間としての資格を失っている。

 「社会とはそんなもの」というような達観めいた認識は、社会を意思や意識の無い総体として、つまり自然として捉えてしまうことから生じている。人間は集合ではなく、類的特性を持った個人の寄せ集めである。

 我々は今一度文明の歴史について認識を求めるべきではないだろうか。それを類たる我々の道具として。

 文明の平均からもたらされる平均的な人間の像は、人間の類的特性を持たない。だからこそ、我々は自らの生活を唯一の手がかりとして、人間の類的特性を目がけて共感をすることでこそ文明という道具の望ましい姿を探求することができるのではないだろうか。