陶器に触れた指先が痛む 言葉が沈む
どうしたものか ときめきの中で 世界が歪む
意味なんてないよ 気まぐれのせいさ
心の奥に触れてくれるな
もう諦めたのだから
寂しい
僕も鳥 覚えていて
そうして君はすかさず捉える 遊びが終わる
わかるだろ?言葉にしなくても
どうでもいいさ
僕は帰るから
湿気た暮らしにも捨てられない命があるから
もう諦めたのだろうか
足りない
僕も鳥のはず
芸術を、私は、経済的な不都合が有れば辞めるのだろうか。いや、そんな事はないだろう。私は根っからの芸術家であり、そういった素質を精神に持っているのだ。芸術家の素質とは、技能を習得する才能ではない。芸術作品の価値は、表現の手法とか細部に求められがちだけれども、そうではない。芸術家の素質とは、共感する能力であると思う。それは、解り合えたと思い上がることではない。理解する能力でもない。ある一他人の精神を知る能力が共感の能力である。だから、芸術は行為の能力ですらない。核心はやはり、共感の能力である。
技術的な修練や作品を理解し体系化することは、必然であって努力ではない。芸術というものにとって、これらは副次的な要素でしかない。表現という芸術の最終段階は、いわば調味料のようなものだ。芸術にとっては、作者の認識、つまり意識と無意識の集合、つまり精神そのものが素材である。素材の、つまり作者自身の精神が変化しなければ、作品にどんな味つけをしても決定的な変化にはならない。もちろん、それをエンターテインメントとして見る場合には全く別である。つまり、味つけが違えば別の作品だ。だが、個人の絶対的な孤独を目掛けて共感を目指す芸術という観点においては、これらの賑やかしは全くの雑音でしかない。むしろ、芸術においては認識そのものと表現が離れ難く癒着しているはずなのである。この場合、表現が変化していくことが、作者の精神の変化を意味している。
芸術は、創造する技術だと、表現する技術だと広く信じられている。そして芸術の才能とは、そういった技術を他人より素早く習得する能力だと思われている。違う。断じて違う。
芸術に、そういった技術が必要とされている、つまり、作者の認識をより赤裸々に作品に出来させるという技術が自ずと要請されることは認めよう。だがそういった技術とはつまり、虚飾を避ける精神的な技能である。それは、飾らなくても自らの赤裸々を万人に提出できるという自信である。
そして、類的存在としての私と貴方が共にしていること、つまり誰もが社会から迫害されるべく運命づけられた、原始的で粗野な、発揮することを決して許されない精神的な特質を持っており、誰もが抱えているにも関わらず共有することが許されない、はみ出した自然を内に秘めているという絶対的な孤独に対して、その生存を肯定することこそが芸術の仕事である。
だから、芸術は優れた技術で夢を見せ、憧れさせることではない。それはエンターテインメントだ。また、観客に与える知覚と感情体験を想定し、その目標から逆算して自らの作品を仕上げていくことでもない。それはデザインだ。
芸術とはつまり、生きて赤裸々を曝すということだ。芸術作品とは、ある一個人が注ぎ込まれた物体である。人は日常会話から人を知るのではない。人の裏面は芸術作品から知る他ないのだ。
月を地球からずっと眺めてみても、いつまでも月の表面しか見えない。考えてみても、月の裏面はわからない。人間も同じだ。いくら付き合ってみても、人の表面しか見えない。だが月と違っているのは、私自身も人だから、自分の裏面なら知ろうとすることができる。
人の道具とされたことに 心が泣いている
私はこの苦痛を逆転への契機とか 生きることの苦しみとか言って
美化するつもりも昇華するつもりもないのだ
有るのは、ゴミのような思惑のゴミのような錯綜なのだ
興味がない、下らない
「つまらないものですが」というあの態度が気にくわない
体液の極限まで薄められた あの人形どもが哀れだ
そこに有るのは 小さな小さな箱に入れられた信念
つまり宗教だけなのだ
強く信じ、小さな箱の中だけを忙しく働く人間が
ほめられる世界は御免だ
真実への瞳は もう太古に平穏に閉じられてしまって、
有るのは規範そのものだけになってしまった
バカの働きアリどもが規範をその醜悪な肉体の作業でもっと強固にして
バカの支配者の箱庭で飼われているという風景は極めてアホらしいが
どうやら そういうことを思いつく奴は なかなか居らんらしいとみえる