yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

たんぽぽ 3

 目的地へと向かう電車の中で、私はぼんやりと考え事をしていた。こういうときに決まって浮かんでくるのは、まず第一に周囲に私をどのように弁明するかということであった。だがどのように弁明するかが決まったり、どう弁明してもどうにもならないことを悟ると、私は目前に知覚されている物事を出発点として、空想的な、ときに哲学的な考えを巡らせるのであった。

 車窓の外には大きな川が見えている。小さな支流と本流の合流点とみられる巨大な水門は閉じており、脇の細い水路から支流の濁った茶色の水が本流へと注いでいた。私は水門の上部にある細い足場に自分が居ることを空想した。そこで、コンビニで買った肉まんを食べるのである。先ほどたんぽぽを照らしていた電灯の光に似た光が、やはりこの足場を照らしていた。ひどく実用的な理由で作られたに違いないあの足場に誰も居ないとき、そこが私の格好の休息所になるような気がしていた。風が強く、肌寒い。そこで私は明けない夜を眺めたいという気分であった。

 

 星空の下、心と宇宙が1つに溶け合う

 先ほどまでの心配は消え失せて

 

 多分、それが死ということなのだろう、と私は納得した。人は生き永らえる限り、自らと外的環境の境界線を失わない。私は死んだとき、本当に宇宙に溶け合うことができ、全ての稚拙な間違いから解放されるのだ。

 

 もう戦わなくても良い。それが、私が電車を降りるときに意識に染みついていた言葉だった。私は恐怖を忘れると共に、社会から見た私は完全な余所者になってしまったように感じた。

 

 軽蔑の眼、これが目的の場所に着いて初めて知覚したものだった。なぜなのか、私には解らなかった。そこに有る二十ほどの顔は全て世間という分類に収まるような、極めてありふれたものだった。私は遅れたことを詫びて、目的の物事をそこで遂行したが、冷ややかな反応とあの顔は変化しなかった。私は、迎合していたのだろうか?それとも、我が道を行き過ぎたのだろうか。話している内にも、私の認識はその世間というものに毒されていくと共に、自分の言葉が宙をさまよった。そして、その場は私に完全な混乱をもたらしただけで終わった。

 

 T君は私の知人である。その夜、例の失敗の後に私を飲みに連れ出した。T君の認識は、私にとってやや常識的過ぎるように思われた。特に見過ごせない誤りは、私が自らの社会的地位を確固たるものにするべく、先のイベントを非常に重要視して準備に臨んできたと考えている点であった。実際には、私は押しては返す波をなんとか乗り切ろうと右往左往していたまでの話である。だが私のいやに慎重な、誤解を避けようとする言葉運びが却ってこうした誤解を導いたに違いないのであった。また、T君が明らかにどうでも良い事柄で私の関心を惹こうとすることにもますます苛立った。例えば飲み屋のモニターに映し出されている音声の無い昔の西部劇について、主人公の衣装にリアリティが無いなどと言って私の見解を伺おうとするのだった。そして私がただ「おう」とだけ答えて煙草を吸っていると、「ごめん、今はそういう気分じゃないよな。」などと本気で言うのだった。また、もし私がこの店に独りで来て、こうした二人組をこっそりと観察していたなら、私もまたT君の側に立って私を心の中で責めるであろうことを想像し、ますます暗い気分になるのだった。そして、私はこうした私の不出来な振舞いを心理的な過程から明確にしようと試みるのだが、それも又T君や他の雑音に絶えず遮られてしまった。

 

 三杯目を注文したところで、T君はもう5、6杯目のハイボールを氷だけにしていた。T君はもう私を気遣うことも忘れて、逆隣の若い女性に懇々と仕事についての倫理観を説いているところだった。そしてその女性は、私が先程閑散としたホームで見た女性と同じように見えたが、恐らく別人であろうと思われた。私は話す相手も無く、あの西部劇を眺めながらT君と女性の会話を聴いていた。不思議なことに、先程T君がこの映画に与えた批評が意義深い、それなりの妥当性を持った考えのように思われてきた。