yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

映画「No Country for Old Men」を観て 5/5

 モスが従った欲求は本能的なものであり、ごく自然なものである。ただベルと異なっているのは、退屈しのぎに怪しいことに手を出さないとか、今自分が持っている生活や資産に満足するとかいった賢明さを彼が欠いていたということである。

 ほとんどの現代人とは異なり、モスはタフで、闘える肉体を持っており、闘う技術を持っている。そしてそのことに自信を持っている。力は、発揮される機会を今か今かと待っている。そこであの麻薬取引が失敗に終わった現場を見たというわけだ。モスがその現場を見たとき、金の行方をすぐに考えた。問題は、金という表象が人間のいかなる欲望に作用して行為を導くのかということである。

 まず第一に、金は人間に衣食住の決済を可能にする媒体だということがある。つまり、自らの生存と周囲の者の扶養を可能にするものだ。だから、金はまず生存したいという欲求に結びついていると考えられる。金に手を出すことは、渇いた喉が水を求めるのと同じことだ。

 そして第二に、金は他人に対して生存を担保する力を持っており、他人を自分の思うように行動させる力を持っているということがある。金を動かす力を持つということは、他人を動かす力を持つということにほかならない。人はいつでも生存の糧を求めている。だから、金が手に入るところへ人は集まるし、金をくれる人に気に入られるように、役に立つように行為する。だから、金の力は人を動かす力である。金を求める者は他者を支配する力を求めてもいる。

 第三に、日常生活の苦痛からの逃避。貧しい生活はしばしば不安と苦痛を生む。重く長い労働と家事の負担によって、自らの生活を変化させる余裕がない。また、不安や焦りは気晴らしの活動を要請する。ここでは仕事というものが本人にとってよそよそしいものになっている。金は労働を辞め、閑暇に憩う時間を与える。以上に書いたことは貧しい人が金を得たいと思う原因となる。だが実際に金を得たときに期待した効果を受けることができるかどうかは又、全く別のことである。

 

 モスの行為は結局のところ、本人にとっても望まぬ結果をもたらした。モスは欲求の充足を目掛けて行為したのだが、そこには起こり得る結果への配慮が欠けていたばかりでなく、自らの行為がどのような結果をもたらしたとしても後悔はしないだろうという確信も欠けていた。この点はやはり武時にも共通している。

 モスの外的世界の不条理との付き合い方は刹那的である。というより、彼自身はとにかく外的世界に対して行為することで何とか思うような結果を得たいと努力するので、不条理を意識してさえいないだろう。彼は望まぬ結果に対しては自らの能力の不足とか計画の不備とかを原因として考える。外的世界が「どうにもならない」ということを前提に自らの態度を決してはいないのである。こういった意味で、モスの態度は最も多くの人間に見られるものである。

 

 テキサスの荒涼とした大地は、人々に厳しい日差しと熱と乾燥とを与えている。シガーもまた、こういった自然の一部を成している存在である。現代人の皮を被った自然。一方で、ベルはよく教育された文明人であり、自らの喜びは公共の福祉と共にある。モスは文明の端っこで自然に足を踏み入れる。そして、自然に敵わないことを知りながら、彼は死んでゆく。