yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

映画「No Country for Old Men」を観て 1/5

 アントン・シガーは絶対的な悪である。カーソン・ウェルズが言ったように、人間社会に普遍的な論理から逸脱している。シガーの行為の動機は自らの経済的合理性ではなく、また社会の中で高く扱われることでもない。シガーにとっては、自らの精神的な態度を行動の中で貫徹することが全てである。つまり、自らの決めたルールに従うこと。目的の達成に向けてあらゆる手段を尽くすこと。シガーの仕事に対する認識は、超一流のプロスポーツ選手のそれに似ている。動機らしい動機を持たないにも関らず、いかなる苦難に見舞われようと、目的の達成に向けて動く。

 幸福な家庭の構成員や、浅はかな動機で首を突っ込んだに過ぎない者に勝機はない。当然、前者は保安官のベルであり、後者はルウェリン・モスである。ベルは、自らの善の認識に従って、保安官としての務めを果たそうとする。彼の動機も又、金や名誉ではない。だが彼はシガーと異なり、サイコパスではない。つまり、他者に共感できる能力を持ち合わせている。これが悪との闘争においては致命的な弱点になる。サイコパスでないからこそ、共感できないものを怖れる。彼は自ら犯人を追い駆けているのではない。そうせねばならない状況になったから、保安官としての務めを果たしているに過ぎない。自らの家庭を保全しようとし、共感できる全ての他人を守ろうと奔走せざるを得ない。彼は事件など起こらなければ一番良いと考えている。その点で、映画”ヒート”のヴィンセント・ハナ刑事とは異なっている。ハナは本能の上で犯人を追い駆けており、自らそうしている。もしLAから殺人事件が消えたら、彼は退屈でたまらなく、この仕事を辞めてしまうような人だろう。

 ベルは、コーヒーを飲みながら妻とおしゃべりをして、多少の暇潰しでもあれば満足できる人である。得てして、幸福な家庭はこういった人物の下に生まれてくるし、共感し得ないものとの闘争を避けようとし、勝利を収めることができないのもこういう人物が必ず直面する状況である。

 ベルが作中でただ一度だけ、そういった日和見的な性向から逸脱した行動を見せた。それは物語の終盤に、モスが殺された現場を自ら再び訪れたシーンである。モスはシガーと出会うことなく、別に金を追っていたメキシコ人ギャングに殺される。シガーに殺されたという見方もあるだろうが、ベルが現場に到着する直前に銃撃戦の音がして、メキシコ人ギャング達が車で急ぎ去っていったことから、このように私は推測する。この仮説に従えば、二度目にベルがそこを訪れて錠がはじき出されているのを見たとき、シガーとの対峙を覚悟したに違いない。保安官としては、ただそこを去っても誰にも何も言われない。だが彼は危険を冒すことを自ら選んだのだ。だがシガーは危機一髪、ダクトを通ってベルと出会うことなく逃走に成功する。すんでのところで悪を裁く機会を逃したベルは引退を決意する。「力が足りない」と感じて。