yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

経済的循環と個人の精神について 前半

 金や経済が人間によって作られてきたものである以上、それを単なる現象として分析することには限界があるのではなかろうか。消費者や生産者を顔の無い人間の集合とか平均とかでまとめてしまうと、却って人間社会を捉え誤るような気がしてならないのである。

 仮に、人間の手によって生み出されたものを総称して道具的存在者と呼んで自ずから出来する「自然」と区別するならば、経済・社会・金などは前者に含まれることになるだろう。自然は、我々が生存するための前提となる条件である。我々はその中で生きており、一瞬たりともそこから開放されることはない。

 では、経済や社会を我々が生存するための前提と捉える平均的な、日常的な認識は妥当であろうか。いや、そうではない。むしろ社会や経済は人間が本能的であれ理性的であれ、様々な活動でもって作り出してきた道具的存在者の総体をある程度の一貫性をもって解釈しているものに過ぎない。自然とは違い、道具には必ず主が居て、主には何らかの動機があったのである。人間の持つ知能やコミュニケーションの能力が遺伝子に刻まれており、自然であるとしても、だからといって社会や経済が自然だと言う訳にはいかない。それは我々の先達が生み出してきた道具の物理的・精神的な蓄積であり、それに対するある認識である。

 だからこそ、我々は文明について論じる際に、自らの存在を度外視してはならないのである。つまり、我々がどうしても万有引力の法則から逃れられないのと同じく、需要と供給の法則から逃れられないなどと錯覚してはならない。

 我々は確かに、宇宙の一部である。全ては何らかの物理的な法則に従って衝突・融合・爆発・飛散をくり返しているだけであり、我々もまたそういった法則の中で明滅する1つの有機物の固まりに過ぎないといった認識も、完全に否定するような根拠を私は見い出すことができない。

 しかしながら、私が「我々」とか「私」とかいう言葉を無数に用いているように、我々は宇宙の法則と自分自身の精神を区別して認識している。この認識が真実かどうかはさておき、これが人間に最も普遍な信仰の1つであることは重要な現事実である。