yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

映画「No Country for Old Men」を観て 4/5

 ベルは年老いた保安官だが、この世界に「理解できる」秩序を取り戻そうと闘う。しかし、冒頭の彼の語りで言明されている通り、若いころのような燃える情熱はもう失われつつある。彼は事件への介入に消極的だ。理解できない犯人の行動原理に対して成す術が無いということを十分に理解している。冒頭の語りは、「この世界の一部になろう(I’ll be part of this world.)」という一文で締め括られているが、観終わってから考えれば、この一文は闘争に参加する積極的な意志表明というよりも、消えかけた心の炎を再び灯そうとした自己暗示だろうと思われてくる。保安官としての仕事を全うし、安らかな自らの家庭を台無しにしないということ。保安官として、悪を理解して闘うのでなく、悪に物理的に肉迫せざるを得ない宿命に対する諦観のような一文である。

 映画の開始時点で既に無秩序な外的世界の事象に対してうんざりした諦めの色が見えるベルだが、カーラに約束したモスの保護にタッチの差で失敗したことで不条理に対する諦めは決定的となる。彼は退官することで「理解できない」混沌に肉薄することを辞め、「理解できる」穏やかな家庭へと帰っていった訳だ。ベルは引退を決意した後、叔父の元を訪れる。ベルは退官の理由を「私では力が足りない」からだと語った。すると叔父は「起こる物事は止められない。変えられると思うのは思い上がり(vanity)だ。」と返す。これは叔父なりの慰めだったのかもしれない。力が足りないのではなく、誰がやっても多勢に無勢だと。不条理を避けるには、「理解できる」、自らの支配力が多少なりとも及ぶ狭い世界に引きこもることが効果的であると、ショーペンハウエルが言っていた。表の世界はただ物理的・肉体的な闘争の世界であり、多少なりとも賢明さと良心を持ち合わせている者は苦痛を感じる。一方で、そういった闘争に本能で向かっていくような者にとっては格好の世界である。ベルも叔父も、狭いプライベートな関係と空間の中で余生を過すと決めた訳だ。

 一方で、シガーは自ら理不尽な物理的世界の一部となっているような人物である。他人の人生など構いなしに、自らの行動を妨げる要素を排除し、自らの行動規範に徹底的に従って目的の遂行へと動いていく。

 ベルのような人物がシガーを理解できないのは当然のことである。ベルは自らが傷つくことを望まず、他人を傷つけることを望まない。他人の痛みに共感して自分も不愉快を覚えるということは、ごく正常な人間の能力である。だから彼は世界に秩序を求める。多少の苦労で皆が傷つく機会を減らせるのならぜひともそうしたい。

 

 だが、シガーは自らの精神に絶対的な秩序を持っていることに既に満足しているから、外的世界に秩序を求めない。むしろ、彼は外的世界の秩序に損害を与えても、混沌の中で自らに不利益があろうとも、自らの精神的な絶対の規範への服従を優先する。それは彼がサイコパスだからこそ可能なことである。彼にとって他人はしゃべれる石ころに過ぎない。邪魔ならば蹴飛ばして構わないし、退屈しのぎに投げても構わない。彼は石ころだらけの世界で、自分で作ったルールに則ったスポーツを楽しんでいるに過ぎない。