yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

社会的事実と真実と

  肉体の疲労とともに理性の働きが弱まる気がするということを以前にも書いた。体を動かしたり、頭で指令を出すことが難しくなるにつれ、大抵の場合は得体の知れない不安をまねき入れることになる。理性の働きが弱まるのなら、何か幻想的な夢や想像が広がりそうなものだが、そういったことが起こるのは十分に眠った後の朝である。私がそういった気持の良い朝を迎えるのは半年に1回くらいである。
 

 本当に考えたいと思っていることの上を言葉が滑っていくことが有る。私は割と直観に従って行動する性質だと思う。
 

 書いても書いても、どうしてもありのままを描くには足りないという気がする。特に疲弊しているときには、言葉は十八番をくり返すような気がする。
 

 一体全体、俺は生物としての一人間として、路を外れてしまっているのだろうか?全ては社会の情勢とコミュニケーションの有りかた、それから一人間の能力の限界に懸かっているという気がする。
 

 我々は不自然な有様で生きることを余儀なくされている、文明人である。「私は阿呆の道を選ぶ」と言ったメメント・モリの言葉には魅かれた。共感に至ることは出来ても、結局は社会の前にひざまづくしかないのだろうか。金に精神を支配されたくはない。
 

 文化・信念・愛・勇気・情熱・・・

 そういった人間らしさが不思議なことに、文明からは疎外されていくのである。その行きつく先には新しく、世間信仰があるのだろう。
 

 俺は、社会のささいな圧力に呑まれて悪を犯したくはない。
 

 俺は、俺の赤裸々を、つまり人間一般の赤裸々を共感に至らしめたいのだ。しかし、この行為は人間社会にとって革命や破壊の兆しではあっても、従来の社会の生産性を上げるようなものでは決してない。さらに例え革命が起ったとしても、その先には新たな支配の構造が生まれるというだけであり、ただの暇潰しに過ぎない。
 

 世間を1つの生存条件とみるだけでは、人生は面白味も何もないだろう。一方で、自らの考えや認識に従えば従うほど、迫害は強まるだろう。
 

 ビジネスが成功を収めることが出来るのは、社会的事実の中でそれをより良く行った場合だけである。そのビジネスがいかに革新的に見えても、それは社会的事実を破壊したり、新たに構築したりする戦いにほかならない。結局のところ、そのビジネスが社会的に良いものだとか、従わざるを得ない認識をはらんでいるという理由でもって受容されることが何より必要なことなのである。

 

 俺は仕事人ではなく、芸術家でありたい。芸術家は真実そのものへ至ることを目がけている。休みなく、いつも必死である。何よりも知ることを求めている。だが社会からの迫害は恐ろしく、それを回避したいと望んでも居る。我々の特徴は、気休めでは安心できないということである。それが例え実利をもたらすとしても、中身を知ることなしに従う気にはなることが出来ない。
 

 一個人の認識は偏見に陥りやすいというのは全く調子外れな誤りである。むしろ、生存や安心に全ての精力を注ぐ社会の方が、真実をないがしろにしてしまうのだ。
 

 芸術家としての生き方を突き詰めたとき、恐らく私は社会人としては酷い有様に成っているだろう。
 

 真実そのものへ向かっていくという態度そのものが、社会への協力を拒んでいると見做されるに違いない。
 

 学者達も今一つ信頼できない。学問は今やプラトンが望んだように高度に制度化されていて、その制度や構造の中で、資格がもたらす利益だけを持ち去らんとする人であふれているのだ。
 

 数少ない真の芸術家達によって、長期的に真実は育まれてきたのである。いや、というよりも、真実へ至る様々な道筋が刻まれてきたのだ。我々はそこから勇気と情熱を取り戻すことができるのだ。

 

 真実は、肉薄するために精神的な障害を乗り越える用意を必要としているのである。
 

 その障害で最大のものは、自らの生存条件を決定づけている社会的事実を素朴に受け容れる態度である。
 

 社会的事実は、紐解かれなければ真実としての性格を持たない。言い代えれば、我々は歴史を学ばねばならないのである。カントの言うように、我々が現象を乗り越えて真実への思弁を進めた場合に、それが単なる妄想に過ぎないという言は認めよう。だが我々が限られた刺激や情報の中で絶えず我々自身のかかる「妄想」を更新し続けていることは言うまでもない。
 

 我々の中に出来する心的体験は、神秘的で興味深いものである。我々自身にとって妥当だと思われる事柄の更新はつまり、我々自身が生きており、世界の何らかを摂取しているということに他ならない。見たまんまが真実だという楽観主義でも、不可知であるという悲観主義でもない。我々が常に世界や自らを眺めており、我々が何かを知ることができ、その妥当性の判断を絶えず行っていることは疑いない。
 

 私は、その判断そのものが社会的事実の前に捨て去られることが残念なのである。