yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

音楽活動について

 早くも、音楽活動の行き詰まりを感じる。自らの認識や特性が作品に表れているのかどうか、良くわからない。ドラムマシーンの導入であるとか、違った曲調で演奏してみることはくたびれる。だが、既に作った曲を何度も演奏し続けるのは退屈である。また、10代半ばまでに作曲活動を始めた人々に対しては、自らが遅れていると感じる。また、他の仕事に関してもそうである。私があれやこれやと心のおもむくままに遊んでいるうちに、ある仕事の技術を会得している人は多く居るだろう。私は、自分が自分で居ることを目掛ければ目掛けるほど、社会への適応からは遠ざかり、金が得られずに借金を増やす羽目になるのだ。

 実際的困難について考えたり、不安を感じたりせずには居られないのは、我々が人間だからである。金が無いことを不安に思わないような人は居ないだろう。とにかく、何かサービスや財を受け取れば、必ず金を払わねばならないし、金を借りれば期限までに返さねばならない。その金は、自らの生産する財やサービスを誰かに売って報酬として受けとるものだ。だが、芸術が金になるのかどうか、俺には見当もつかない。

 私が作る作品が、新たな認識の形成に向けて働きかけるようなもので有ることは間違いないと思っている。だが、それは必ずしも格好が良いとか真似したいというような感想を抱かせるようなものではないだろう。恐らく私の作品を「ポピュラー音楽」というラベルを貼って売り出した場合、人々は酷くいびつな印象を受けるのではないだろうか。

 一方で、人々が快く受けとることが出来るようなデザイン作りの術を私は持たないし、やりたくもない。

 一筋の光、それは、周りに良く思われようと四苦八苦するよりも、自分勝手に(自分が快く・楽であるように)する方が実は共感へ至りやすいということである。しかしながら、日本人は仕事の場合だけこの傾向を失ってしまう。だから、私の音楽は同業や近しい人々からはコキ下ろされるであろう。だが、本当に好いてくれる人、肯定してくれるような人々は私と全く利害関係を持たない人々だろう。

 私は、自らの作品を少しづつ、恥ずかしがりながらでも良いので外へ開いていくべきだと思う。それは、芸術作品の良悪とは関係のないことだ。しかし、私が何よりも私自身であるように生み出され、演奏される作品は人々に何かを残すことが出来るのではないだろうか。ともすれば、商売上の技巧に終始しそうになる。だが大切なことは、私が音楽と共に有るとき、私が私であるか、そうでないかだけである。