yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

ソフィストか、ソクラテスか

 学問の起源は、中島先生の「社会の中の科学技術」によれば、天文学である、というようなことが書かれていた。詳しい内容は忘れたが、確か天体の運行と時間の関係を調べたり、将来を占うことであったりといったことが学問(科学)の起源である、と言われていたような気がする。最初の頃は、自然科学は神によって作られたこの世界について知るための方法だったのだろう。また、ソクラテスソフィスト以前の古代ギリシャでは美とか善なる人間の理想的な有り方については、詩人の語る神話によって決定づけられていたという。アテネの没落に伴ってソフィストは処世に向けた弁論の訓練を提供する。今の日本とまるでそっくりである。子供の立身出世の為に、塾へ通わせて偏差値を上げる。

 いや、立身出世というよりも、不安定な収入を受け取る大人が多い社会の中で、選択肢を狭めない為に親が子供に受けさせているということだ。要するに、自分の子供が好き勝手やった結果、不安定かつ低い収入で劣悪な環境で働かざるを得なくなる、というような場合を想定し、そうならないようにしてあげようという訳だ。だが、塾で教えられる内容は個々の教師の研究の成果ではなく、単なる受け売りだし、内容の真偽についても大した吟味は成されておらず、中心的な関心事は生徒が試験で良い点数を取る為の働きかけであり、また経済的には親の満足を目掛けて金銭を受け取っている。だから、現代の塾はソフィスト的である。

 一方では、貧窮に伴って、またソフィスト達の行う授業がそれに拍車を掛けて、人間の善悪ではなく自らの損得をまず考えるという利己主義が一般化する最中にソクラテスは現れる。

 ソクラテスは倫理的な哲学者である。まずもって、1人の人間が善く生きるとは、いかなることかを考えた。ソクラテスに言わせると、自らの知がどこまで及んでいるか、その限界を見極められないということが悪である。何故ならば、本当はよく知らないことについて知っているように思い上がり、それを吹聴することで尊敬を勝ち得ることは、神に対する不敬であるからだ。また、彼は当然、その思い上がりの基礎には衣食住を成立させる為に金が必要で、金の収集には見せかけでも構わないから評判が必要だということがあると、当然気がついていただろう。彼らやそれに追随する多くの人々が勝手気ままに付和雷同することで、真偽よりも勝敗が重要視され、そのための訓練には金を払う価値が有るということが社会の中で現実と化す。個人が善く生きるということは、人間たる自らの知の限界を認めた上で、善く生きるということがどういうことかを今一度自らに問い質すことであると彼は考えた。その為にはまずもって自らが知らないことをその通り知らないと自覚して探求を始めねばならない。だから、彼は知者と評判の者達に次々と質問をしていくことで「無知の知」へと導こうとしたという訳なのだ。

 私はソクラテスと似た認識を持っている、つまり社会的現実に対する絶え間ない疑念を真実と対比することで持っている。だが、彼が自らを犠牲にしてまで、他人に語らせた社会的現実を打ち砕いて恥をかかせ、真実への探求へ向かわせようとしたその教育方法はあまり効果的ではなかったのではないだろうか。

 人が社会的現実と結び得る関係は、基本的に2通り有る。まず1つは、それを丸々真実として飲み込むやり方である。この方法を採用する人々に無知の知を説けば、恐らく狂人扱いを受けるか、「なんとなく頭が良さそうだが私には解らない」と言われるだろう。他方は、それを真実とは認めていないが、社会の中で迫害を受けて生存や扶養を危機に陥れないように、一応それを学び取り、自らの振る舞いに現すというやり方である。しかも、基本的にその振る舞いは他人に対して中断することが無いため、外面はそれを真実と捉えているように感じさせるように設えてある。