yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

小説「アンナ・カレーニナ」の結び

小説「アンナ・カレーニナ」の結びは、俺の人生に重要なものを投げかけているという気がする。

 

信仰と先入観は同じものを指している。これは無意識の中に根を下ろしていて、それを後から理性的に眺めることができ、言語化できる機会がある。

 

ただし、理性による自己の信仰に対する分析は、当たることができる素材がそれそのものではなく周辺の物事であるために、至極不完全であり、ときとして的外れですらあり得る。

 

つまり、直接に体験し、自らが気付くことのできるものは個々の感情であって、先入観そのものではないのだ。これはある事件の捜査に似ている。もう起こってしまった事件を、もう一度捜査官が目の当たりにすることはできない。ゆえに、個々の証拠から事件そのものの全体像を逆算することになる。

 

先入観を把握することも、これと同じだ。個別の状況で起こった感情体験から、自己の先入観を逆算しているのである。



リョーヴィンは、自らの先入観と情熱が自らの意識に開示されていないということに深く病み、自殺まで考えるようになる。これは養老の言うところの無意識への軽視である。意識でもって自らの本質を眺め尽くし、意識でもって自らの生活をデザインし尽くすことの不可能さを彼はそう表現している。

多くの哲学書も、リョーヴィンに拠り処を与えてはくれない。結局のところ、実生活は自らの知がどこまで及ぼうとも、全く無関係に進行していくからだ。しかも、自らの行為さえも、満足に創作することは困難である。

 

リョーヴィンは、青空を眺めているときに、不意に一つのまとまった考えに達する。自らの先入観こそ、自らの人生を決定づけるものであり、他の言語化された諸認識よりも俺にとっての真実なのだ。

俺がこの青空を丸天井と現にいま捉えているのだから、その解釈は俺の人生にとって真実なのだ。

 

俺は、以前と変わらず日常生活を続けていく。それは、俺の思索とは何らの関係もない。自らの行為さえも、俺の思索から生まれ出るのではない。しかし、神なる大地から恵みを受けて生まれた俺の存在も、行為も、善なる俺の先入観に基づいているので、その全てに善なる意義を見いだすことが出来るのだ。

かくしてリョーヴィンの信仰は、自らを善だと信ずるものとなったのだ。その基礎となったのはやはり、彼の生活を決定づけている、豊かなロシアの大地の恵みであったに違いない。