yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

映画「君たちはどう生きるか」を観て 3/3

 今作の評価は絶賛と酷評に二分されていると聞く。恐らく、親しみやすいエンターテインメントを求めている観客は本作品に面食らうだろう。つまり、登場人物への感情移入がしやすいとか、物語の意味を理解しやすいとか、そういった要素を作品に求める観客にとって本作品は愚作と感じられるに違いない。宮崎という人間そのものの認識を映した本作品は現実と夢が複雑に絡み合った作品であり、人間というものを単純に捉えている、つまり表から人間を捉えている人々にとっては本作品は全く理解不能であるに違いないのだ。人間のうち表に見える部分は見えない精神に比べて極めてシンプルである。思考や感情の過程は全てすっ飛ばされて表現されるからだ。更に個人は自らを真当な社会人に見せるように表面を整えているので、一個人の赤裸々は他人に対しても、自分自身に対しても基本的には秘匿されているのだ。だから、人を世間とか表面から捉えている人々にとって、一個人の精神が映し出されている今作は意味不明だろうと書いたのだ。
 一方で、自らの精神をもって人間そのものを理解しようとしている人々にとって、今作に共感するにせよしないにせよ、今作は探求の素材として文句なく面白いものだったに違いないと思う。こういった人々にとっては対人のコミュニケーションよりも対作品の出会いの方がより深く広く他の一個人に触れられるという意味では重要な役割を果たすのである。こういった人々は今作品を通して宮崎という人間の精神に触れ、またその生き様について、生活について思いを巡らせるだろう。
 さて、私は今作品から、宮崎駿がどんな人間であると感じられたかを書くつもりはない。言葉は個人を表現するには酷く不便なものだし、名誉に関わるようなことに触れる際には言いたいことを歪めなければならない。ただ、私がこの映画を一緒に見に行ったMは面白いことを言っていた。
 私に比べて視覚の芸術に明るい彼女は、ジブリの作品で作画にこんなにも多くの狂いが見られるのは今作がはじめてだと言ったのだ。私は全く気が付かなかったことである。
 続けて彼女は、今まで徹底的につぶしてきた作画の狂いを今作では容認するような気分に宮崎がなっていたのではないかと付け加えた。むしろ、敢えてそういった誤差を作品の中に残すことで、作品が人間を映すということを妨げないようにしたのではないか、とも言った。それを聞いて私は、確かにと納得した。確かに、「許さない駿」から「許す駿」に変わったのかもしれないと思った。