yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

都市公園の水面

鳥飛び立つ

 

片や小舟ゆく

 

鏡の水面

 

姿を消す波紋

 

 

音も立てず

 

女は行く

 

怒りは無く

 

 

気障な男 タイをきつく締め

 

憧れへと贈る夜の手紙

 

触らないで

 

今はロマンだけで

 

二人おちる

 

眠る街の果てで

 

 

吐息だけが

 

髪をすべり

 

ただそれだけ

 

 

ただ抱き合う

 

ぬるい風に酔って

 

春のはじまり

 

そよぐ草の香り

 

 

愛を贈る 言葉は無い

 

 

体ひとつ

 

今を抱き締め合う

 

心ひとつ

 

響く誰かの足音

 

 

急いで闇の側へ

 

手招くただ悪魔が

 

照らし出すサーチライトが

 

2人をついに射止めた

 

www.youtube.com

光明

光明、光明を求めているのだ

自らの生活に

金ではない生き方を探して

それが阿呆らしいというなら

それはまた後に考えよう

少年らしい幻想

それは社会的な条件を全く知らないということ

多かれ少なかれ我々は未知のままだ


覚えているか?私がこの道へ入ったときのこと

それは何の前触れも無く訪れた

私は確か、人の歌詞をノートに書きつけていた

だが物足らず、自らの想いがあふれ出た

こんなことが誰に教われるだろうか

我々は知り、そして創造する生物なのだ

 

俺は独りだと感じる

話しても虚しさが募るだけだ

表向きは表向き、本当の人間は表れてこない

寂しさに出発して歌うなら

君の声を又聴きたいと想うだろう

世間知らずだと笑われるなら、

彼らも又同じことだ

私は私の道を行く

単に人生を訪ねて

ただ、まだ知りたいと

その気持ちが有るばかりだ

現実、それが何なのか

明滅するものを追いかけてはならない

我々はもう一度 還るべきだ

もう一度 昔を訪ねるべきなのだ

 

口ゲンカに終始するなら

人間関係は虚しい

俺はもっと貴方を知りたい

崩壊してゆく 日常の中で

あなたを知りたい

一人間の栄枯盛衰

転がり落ちていくだけ

俺の人生が30で終わるなら

それもまた良いだろう

文学の登場人物は

移ろう自然のごとく

一貫性がない

それこそ、正に人間なのだ

今一度思い出すべきだ

我々が荒れ狂う魂だということを

 

人間社会の中だけでもって徹頭徹尾生きているというなら、

人生は全くつまらない

人間が不定形であるからこそ、見るに値する

ああ、私の作品たちよ

出世の役には立たずとも

もう一度知らせておくれ

そして俺を返してくれ

くだらない日常の中に、

重力には逆らえない

ただ 落下していくだけ

我々の未来?

たかが知れている

面白いか、人生は

そうとも、それで十分なのさ

もう一度知らせておくれ、 形の悪い者たちよ

 

合致 何を言うのか 知らない

もうとんでもなく幸せで不幸だ

芸術の彼方へ

言いたいことがわかるなら

バカだなあ

さてと

何が何だか

俺にはわからない

幸せだ

温かな寝床

それだ

俺がただ欲しているのは

そして手に入れても気づかないのは

それだ

 

俺が1つの居場所を設けることが出来るのか

そんなことが出来るのか

見せかけではダメだ

商売ではダメだ

誰一人差別されることがなく、

誰一人入店を拒まれない

争いが許され

皆が運命の中へ溶け込んでいく

そう、石ころがそれとして、ただそこへ安住できるように

ただただ、そこに居ることが許される

私は、私は、私は?

コーヒーをいれるのだろうか

私・・・私 とは?

さて、暗い暮らしの中へ

再び、鉄を打ちに戻るのだろうか

 

狂、狂は、人間の本能の反抗だ

笑ってはならない

君も又、いつしかそうなるのだ

軽蔑することは辞めたい

俺は

俺は

死を求めて居るのだろうか?

バカを言え、俺は生を求めている

ただただ、世界に溶けて

安住していたい

彼の言うように、

ただ1つだけ、

希望、桃源郷

俺を呼んでいる

 

バカなのか、 楽しいか それは良かった

ああ、 何かが違ってる

解ったつもりでも、まだ迷いの最中だ

モナカ だよ

声・・・

知っているか?

辿り着けるのか?

知ることが出来るのか?

暗い部屋のモナカで

果たして

誰と出会うのだろうか

チキチキボンバイエ

ボンバイエって何だ?チキチキって何だ?

考えたことあるのか?

バカがよ

 

駄作だ、偉作だ、

超一流の失敗作は絶対に大駄作だ

精神に近いので、

こわれるのも又早い

システムではなく

生肉だからねえ

こわれたときくさいのは

肉だよねえ だからだよう

ぱーわん、良い名だよな

近々、新たに何かひとつ、 よろしく

どうするかって

単純だよ どうにかするということだ

どうやってって?

どうやっても何もな、

どうにかこうにかさ

 

解放

我々の今

我は



まあな、 そうだろうな

二人居ると、

悪魔

痴れ者

追い出すか、溶け合うのか

そうそう、知りたまえよ

生きるな、死ぬのだ

ああ、それが生きることだよ、 わかったか?

わからねえだろうなあ 考えてみよ

 

飛び出せ.
飛べ
飛べ
飛べ
飛べ
  飛べ
飛ぶな.

真っ当な作品にメタを放り込む思考実験

 メタ的な描写を作品に持ち込むことが、作品にとって良いのか悪いのかという問題が有る。
 例えば、絵画を1枚仕上げようというとき。途中まではとても美人な女性を写実的に仕上げていたとしよう。だが、作者はある日、その作品の前に座って描きはじめようとすると、その作品に「全く関係のない、唐突な」要素を加えてしまいたいという気がしてくる。しかもそれは、この作品をより良いものにしようとか、芸術界全体に挑戦状を突き付けようとかいう思想とは関係がない。ただ今日一日がすごく退屈だったので、気晴らしをしたいという気分である。作者は太い筆に黒い絵の具をべったりと付けると、すうーっとその肖像画に線を引いてしまった。しかもそれは顔にバッテンを付けるというような意味を持つ線ではなしに、何だということもなしにただただテキトーに引かれた線である。
 彼はここで、彼の刹那的な退屈気分をすでに完成しつつある作品に大胆にもぶちまけてしまったわけだ。更に大胆なことに、彼はこの作品に何の弁明も付け加えることなく肖像画として公表してしまった。世間の反応は知れている。人々は口々に「あぁ、この線さえなければ!」と言った。大方の人は、作者がこの蛮行に及んだいきさつを正しく推論し、「退屈だからといって作品を汚すとは何事だ」という評論を加えた。
 では音楽作品ならどうだろう。作者は途中まで、ありきたりな8ビートで、いわゆるロック調の曲を作っていた。ある拍子、この曲に電子音を乗せたいと思った。その音や旋律のイメージは凡そ固まっていた。しかし、彼はパソコンでそういった作業を行う技術に乏しいので、イメージにそぐわない音、ズレた旋律が出来上がってしまった。彼はもう連日の作業に疲れ果ててしまって、とうとうその電子音を乗せたまま、何の取り繕いも無いままにその作品を公表してしまった。ライブイベントでその作品を演奏すると、客は途中まで大盛り上がりで体を揺すっていたのに、その変てこな電子音がピーヒャラ鳴りはじめると途端に豆鉄砲を喰らったようにしずまってしまった。会場の後ろの方で座ってタバコを吸っていた1人の変わった静かな客は、その音楽作品が生み出す奇妙な感覚に目新しい感動を覚えていた。だが彼が周囲の人々にそれを伝えると、口々に「変わった奴だな」と言われてしまった。

レイバーブルース

バカいうんじゃねえよお

つかれてんだよお

まあいいか

よくねえか

最近は明日も見えない

一寸先も見えない

目眩がするよお

つかれたよお

 

コーヒーよ俺を癒せ

睡眠よ俺から逃げるな

スマホよつべを見せるな

俺よ生活を管理せよ

 

日常に吹き出し

欲望のひとかけら

塞がる穴も塞がらない

一足踏み入れたなら

後戻りはできない



バカいうんじゃねえよお

つかれてんだよお

まあいいか

よくねえか

最近はテレビも見てない

週刊誌は読まない

目眩がするよお

つかれたよお

 

コーヒーよ俺を癒せ

睡眠よ俺から逃げるな

時間よすぐに溶けるな

俺よ生活を管理せよ

 

日常に吹き出し

欲望のひとかけら

塞がる傷も塞がらない

一足踏み入れたなら

後戻りはできない

 

一足踏み入れたなら

後戻りはできない

 

一足踏み入れたなら

後戻りはできない

秋風

有給取って 帰り道や

昼食奏でたいや

立ち竦み 目を閉じれば

近々閉店だな

悲しくもない

 

脱走だ

裸足で走るぞ

代走だ

着の身着のままで

 

愛そうかい

仏になるまで

はい、そうかい

言うだけ言えば

 

 

昇進間近

誰も彼も

旨みに飛びつけと言う

嫌なこった パンナコッタ

煙草によく合うのさ

惨めでもない

 

脱走だ

裸足で逃げるぞ

男装だ

女々しい俺様

 

愛はない

金無し男に

恋も無い

紳士を気取れ

 

 

生活が

逃げたは良いが

首を絞めてゆくだけ

やっぱりさ

飯喰うには

人気が必要なんだな

嘘はつけない

 

 

現代の壁が

厚くそこに聳える

染まるだけの人が

蒸し風呂で汗をかく

 

俺独り外で

一部始終を見てる

瘦せ細った体が

軽蔑の的になる

 

おお

 

www.youtube.com

めそめそした模倣

何でも書いて良いと
私は自分に言って聞かせるのだが
これがどうしてか難しい

いつの間にやら、自分が作るべき作品の期待値は無意識の内に吊り上がっている。そして私が無力感とか、制作活動へ向かうことへの恐れとかを抱くとき、多分そういったことが起こっている。
 こうなれば、言葉は役に立たない、暗示は役に立たない。実感に欠けた抜け殻は、風吹けば飛んでゆくのだ。

 私は、自分がつまらない書き手であるとか、ヘタな演奏家であるとかいうことを恐れているのである。そして、その恐れは私の作品を小さな箱に閉じ込めてしまっている。どこか、伸び々々とした感じが無い。内から湧き上がってくる来るものが、恐れにさえぎられる。
「みっともないのではないか?」
「これを知り合いが鑑賞したら、私に幻滅するだろう」

 こうして一社会人として、作品を公的なものとしてデザインしてしまう罠に掛かる。もはやそのとき、私は芸術家たることを中断している。私は酷くみじめで不出来なデザイナーになってしまっている。結局のところ、恥を想像して恐れるあまり、芸術を中断した挙句にヘタで中途半端なデザインをやるから、作品がめそめそしている。

 だが私はここで敢えて問うてみよう。それは一体悪いことなのだろうか?
今、思い出したのはイギリスのロックバンド、The Rolling Stonesキース・リチャーズが自らのバンドのデビューアルバムを評して「めそめそした模倣」と言ったことである。誰の模倣かといえば、50年代のロックンロールを形成した先輩アーティスト達と、ロバート・ジョンソン等、それ以前のブルースマン達だったろう。(私はロックンロール以前のブルースマンを彼以外に知らない。)ビートルズのような音楽はビートルズ以前には無かったし、ローリングストーンズのような音楽はローリングストーンズ以前には無かった。そんな彼らも最初は不出来な模倣から始めて、その後独自の展開を見せた。
 音楽は不思議だなあ。なぜなら、それ以前には無かった感覚を与える作品は、まちがいなく新しい作品なのだけれど、「何が?」「どこが?」と問われると全く答えに窮してしまうからだ。
 だから、新しい感じを与えるのは、その秘訣は決して作品の形式自体であるとか、個々の要素自体とかに潜んでいるのではない。
 芸術の歴史は、社会の歴史、作者個人の歴史との関係で語られる。私が見い出してきたのは、個人の精神は今も昔もあまり変わらないが、社会的環境と、それに伴う社会的現実(「世間の言い分」と言い換えてもよい)は移ろいが激しいということである。
 新たな作品は必ず、既存の社会的現実にさからって登場してくる。それは、個人の精神と社会的現実が一致しないことを反映している。つまり、新しい感じを与える形式とか要素はたぶん、その時代の社会的環境とか社会的現実への反抗として呈示される為に、必然的に生まれて来るものなのだ。
 
 まあだからつまり本題に戻ると、作るしかねえってことだ。箱に閉じ込められている内は、「めそめそした模倣」だよ。

自由広場の乱暴者

疲れ果て 本能そのものとなるとき
筆が乱れる

 

俺を軽蔑する眼の中で
筆が乱れる

 

新幹線に乗って
俺が祝福される場所へと向かおう
皆、のほほんと笑っていれば良かった
あの頃に帰ろう
誰も俺を罵らない あの場所へ

 

木々には美しい果実が実り
草の広場は人が踏み馴らし
木陰にちょこんと黄昏も良し
皆で集って話すも良し
万事に利用しやすいよう、整っていた
暗い顔の管理人も居なければ
アルバイトの青年も居らず
誰一人 団欒の邪魔をする者もなかった

 

そこで商売をやる者は居なかった
だから、誰一人足を踏み入れることを
拒まれる者はなかった
ただ 人々は自らの思い々々に
そのとき、その場所を楽しんでいた

 

私が思い出す自分の居場所は
親戚の集いだ
行き過ぎた行いを諌められたことも有ったが
今は遠い昔のこと
恨みも辛さも消えた
ただ俺がそのままに居ることを
許される場所だったのだ

 


あるとき、その広場へ不穏な一団が入ってきた
男性の少年が4人
転がる果実を蹴飛ばし
婦人の尻にぶつけた

 

 その家族は夫と婦人とまだ幼く、ようやっと口が利けるようになった女の子の3人だった。例の一団は不敵な笑みを浮かべていた。「いつものことさ」というような感じである。
だが、ひときわ存在感を放っているリーダーの男は内心面白くなかった。その家族は動揺するでも怒るでもなく、一瞬のささやかな当惑の後に、例の果実を処理し始めたからである。夫は妻に布切れを渡し、妻は自らの尻についた水滴と泥をぬぐった。夫妻ともに、決まりの悪いような様子はなかった。だが例の男に一番不愉快な印象を与えたのは、女の子が泣き叫ぶでも敵対心を露わにするでもなく、ただちょこんと座ったままこの始終を興味深げにまんまるな目で眺めていることだった。
 彼らは確かに質の悪い団体ではあったが、心の中にはちゃんと相手の痛みを感じとる共感の能力を宿しているのだった。リーダーの男はこう考えた。「あの家族はばつの悪さとか、相手への敵対心とかいう感情が抜け落ちているか、それともそういった感情が押し寄せて来たときに、それを露も外に表すことをしない能力を身につけているのだ。」と。
 男の驚くことに、その広場の人々は誰も彼等と戦おうとしないばかりか、ほとんど彼等を意識の中に置いてはいないようだった。
 男は何の気無しに、地面から小さな石ころを拾い上げると、それを一本の木の頂点を目掛けて投げた。石ころは木の葉に捕えられ、バサバサという音を立てながら重力に任せて落下していった。すると、何事かと見上げたある別の男の子の瞳に、それが当たってしまった。その子の母親は動揺し、目を押さえてうずくまる男の子に「大丈夫!?」と声を掛け、目の状態を確認しようと、男の子の手を顔からどかそうとつかんでいた。例の団体は元の進行方向へと全速力で走り、逃げ出した。しかし、その子の父親は猛然と駆け寄っていった。すると、その団体ははしゃぎながら男を足蹴にし、動けなくなるまで暴力を浴びせた。広場に居た他の人々は、ただ何が起こったのかと心配そうに眺めているだけで、父親を助けようとはしなかった。もう例の団体はどこかへと去ってしまった。その家族は父親の元に集まってただ泣いていた。広場の他の者たちは、父親に美酒を与えたり、美しい果実や布を与えることで慰めた。
 この広場には国家も法も無く、あのような無法者に報復できるような力と意志を持つ結社の類も無かった。男の子は右目に弱視を抱えたが、その家族は以前と変わらずに暮らしていった。