yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

芸術とエンタメ

 流行とか常識は同じものを指している。ただ、相対的に持続する時間が常識の方が長いだけである。人が愚かであるか賢明かを判断する1つの指標は、その人の持つ認識が、どれほどの長い期間で通用するかということであろうと思う。作品の良悪もまたそうだ。作者の認識が作品に溶け込むことによって、作品がどれだけの長い間、鑑賞に耐え得るかが決まるのである。技巧というのは、認識をどれだけ素直に作品に込められるか、ということだと思う。つまり、表象と認識との隔たりを埋めるもの、それが技巧である。だから、良い芸術家は常々、自らの認識を更新し続けると共に、技術的な練習にも取り組まなければならない。

 技術的な困難は、自らの認識を、自らにとっての死角へと追いやってしまう。なぜなら、技術が未熟であると自らが痛感しながら作品の制作や発表にあたっているとき、その人は技術の不足を意識的な努力で補い、取り繕おうとするので、自らの意識がその場の取り繕いで一杯になってしまい、自らの精神を忘れ去り、自らの表象や外界のことだけに集中してしまうからだ。だから、良い芸術家は技術を磨き、自らの精神を、その存在を緊迫した場面でも感じることができるほどの余裕を持てるようにしなければならない。

 一方で、技術を磨くことに手一杯になってもいけない。なぜなら、作品の真の限界は作者の認識が決定づけているものだからである。偏屈で狭量な独断に留まったり、現代社会の常識や流行に染まりきってもいけない。人類の歴史から、そして過去の作品に当たることによる先人達との交流から、自らの認識そのものをまず歴史の試練に耐え得るように、手入れしていかなければならない。認識の拡充は、今この瞬間のことを歴史的な文脈の中で語ろうとすることであり、また、人間社会の表象を個人々々の精神と結びつけることであり、外的世界と、自らの存在についてより広く深く知ろうとするということである。

 ちなみに、こういった活動がもし金をより多く稼ぐということを目的とするのであれば、できた作品の芸術的な価値は全く損なわれてしまうだろう。金をより多く稼ぐということは、人間の表象、つまり道具的連関の中にある人間の物理的な存在をあたかも人間の精神かのように見做し、その精神が抱く欲求を満たさんと、自らやその作品を道具に堕としめるということだからだ。むしろ芸術家は、自らの精神をとくと眺めることによって、他人の精神をも知らなければならない。表象から精神を導こうとしてはならない。歴史的な試練に耐え得る精神や作品が有るということ自体が、人間一般の精神の類的な共通性が有るということを我々に知らせている。こういった作品に特有なことは、鑑賞者と作者が共感を持つということである。流行って廃れる一般的なエンターテインメントは、この「共感」という現象を起こさず、鑑賞者に夢とか憧れを与える。夢や憧れは、自らの表象とエンターテイナーの表象を比べて、自らのそれがより劣っている、つまり今現在の道具的連関から必要とされる度合いが小さいという認識から二次的に生じてくる感情である。このとき、鑑賞者は作品を通して人間の類的特性を知るのではなしに、ただその技巧そのものが凄いということを感じるだけである。

 芸術には、人間そのものの精神や、そこから見た外的世界を鑑賞者に伝え、その認識の拡充に貢献するという大事な使命が有る。これは他のどのような実利的教育にも優る教育力であり、人が人として生きることを力強く肯定することでもある。

映画「No Country for Old Men」を観て 5/5

 モスが従った欲求は本能的なものであり、ごく自然なものである。ただベルと異なっているのは、退屈しのぎに怪しいことに手を出さないとか、今自分が持っている生活や資産に満足するとかいった賢明さを彼が欠いていたということである。

 ほとんどの現代人とは異なり、モスはタフで、闘える肉体を持っており、闘う技術を持っている。そしてそのことに自信を持っている。力は、発揮される機会を今か今かと待っている。そこであの麻薬取引が失敗に終わった現場を見たというわけだ。モスがその現場を見たとき、金の行方をすぐに考えた。問題は、金という表象が人間のいかなる欲望に作用して行為を導くのかということである。

 まず第一に、金は人間に衣食住の決済を可能にする媒体だということがある。つまり、自らの生存と周囲の者の扶養を可能にするものだ。だから、金はまず生存したいという欲求に結びついていると考えられる。金に手を出すことは、渇いた喉が水を求めるのと同じことだ。

 そして第二に、金は他人に対して生存を担保する力を持っており、他人を自分の思うように行動させる力を持っているということがある。金を動かす力を持つということは、他人を動かす力を持つということにほかならない。人はいつでも生存の糧を求めている。だから、金が手に入るところへ人は集まるし、金をくれる人に気に入られるように、役に立つように行為する。だから、金の力は人を動かす力である。金を求める者は他者を支配する力を求めてもいる。

 第三に、日常生活の苦痛からの逃避。貧しい生活はしばしば不安と苦痛を生む。重く長い労働と家事の負担によって、自らの生活を変化させる余裕がない。また、不安や焦りは気晴らしの活動を要請する。ここでは仕事というものが本人にとってよそよそしいものになっている。金は労働を辞め、閑暇に憩う時間を与える。以上に書いたことは貧しい人が金を得たいと思う原因となる。だが実際に金を得たときに期待した効果を受けることができるかどうかは又、全く別のことである。

 

 モスの行為は結局のところ、本人にとっても望まぬ結果をもたらした。モスは欲求の充足を目掛けて行為したのだが、そこには起こり得る結果への配慮が欠けていたばかりでなく、自らの行為がどのような結果をもたらしたとしても後悔はしないだろうという確信も欠けていた。この点はやはり武時にも共通している。

 モスの外的世界の不条理との付き合い方は刹那的である。というより、彼自身はとにかく外的世界に対して行為することで何とか思うような結果を得たいと努力するので、不条理を意識してさえいないだろう。彼は望まぬ結果に対しては自らの能力の不足とか計画の不備とかを原因として考える。外的世界が「どうにもならない」ということを前提に自らの態度を決してはいないのである。こういった意味で、モスの態度は最も多くの人間に見られるものである。

 

 テキサスの荒涼とした大地は、人々に厳しい日差しと熱と乾燥とを与えている。シガーもまた、こういった自然の一部を成している存在である。現代人の皮を被った自然。一方で、ベルはよく教育された文明人であり、自らの喜びは公共の福祉と共にある。モスは文明の端っこで自然に足を踏み入れる。そして、自然に敵わないことを知りながら、彼は死んでゆく。

 

 

地下鉄の階段を下りて

混乱の中 様々な妄想が浮かんでは消えた

目前にしている状況を整理することができず

夢と現実の境が失われている

 

目黒の天気は曇り

今にも降り出しそうだ

傘を置いてきた

一度 辞めたらどうだろう

人生を? そんな無茶な

 

初夏らしくもなく 寒々としてる

火照る肉体と 冷や汗をかく心

見えた景色は青か赤か

わからないので語れない

 

目黒川に掛かる橋は

車行き交い 人行き交い

葉桜を眺める暇も無い

 

この季節 ああ この季節

私は還るべき街を想う

 

 

時は夕暮れ 夕涼み

夏祭りも近い

十五を越えたら

はしゃぐことも難しくなったが

 

今年は記録的な暑さだそうだ

忙しくて気が付く暇も無かった

どうでも良い ああ どうでも良い

模型みたいな会社

動物の香りのない家庭

顔の無い社会人

味の無い会話

 

摩天楼の下をくぐって

スーツの私、帰ります

カフェには 明るい顔した人が

沢山居たので

腹は減ったが 帰ります

 

 

どうしてどいつもこいつも

意味の無いことに精を出しているのか

楽しいならまだしも

安らぐならまだしも

そいつらは笑顔で居て闘っているようだ

人に揉まれ 組織に揉まれ

当たり前が忘られた世界で

押し合いへし合い 苦しそうに

 

この間 ある女が言っていた

「フットワークが軽いことを売りにしていく」

そうだ

大変だろうが頑張ってな

 

一に勤勉、二に優しさ、三に聡明

だそうである

わからんことを偉そうに

上の奴等は皆そうだ

 

 

トカゲが小さな穴から飛び出した

と思ったら大きなムカデでした

 

それ以来 学校のプールの裏で

トカゲを探すのはやめました

 

プールの下には、コンクリートの柱と

かわいた土の 暗い空間があったなあ

 

体育館の裏の斜面で

木につかまって飛び降りた

 

ああいう訳のわからん隙間が俺の居場所

だったんだなあ

 

大人になれば隙間には居られない

誰かが君を見ているよ

さて、人は人で居続けられるのか?

難しいことだよ それは

 

 

大人になってからわかったことだけど

日陰者は都会に集まるのだ

田舎よりも都会の方がずっと隙間が

多いからね

 

大事なのはどう生きるか じゃなくて

生きるということじゃないか

人が人として生きるということだろう

何がなんでも

君が君として生きなければ

全ては経済の手に墜ちるのだから

 

どいつもこいつも 売れようと必死だ

辛いんだろうな

誰からも必要とされないことが

つまらない自分に

誇りを持ちたくて

大きな金を集めようとしているのだ

 

 

 

ああ、どいつもこいつも

口げんかに必死だ

何かを伝えようとしない 言葉

あるのは憎しみと闘いの本能だけ

気がつかないのだから 質が悪い

君は一体 誰を守ろうとしているの?

人の痛みを自分のものに感じたなら

もっと孤独でなくなるのに

 

 

 

…雨が降ってきた

辺りに靄が湧き立ち

全てを幻想に変えてくれた

 

地下鉄の駅へ

タイルの急な階段を下り

ホームで昔の本を開いた

 

 

 

心に残ったのは

駅のほこり臭い、甘い香り

赤茶けた線路の向いの壁

どこまでも続く暗闇

人々は顔を持たない

心に何を秘めているのか

知る由もなかった

だから俺は本を開いた

映画「No Country for Old Men」を観て 4/5

 ベルは年老いた保安官だが、この世界に「理解できる」秩序を取り戻そうと闘う。しかし、冒頭の彼の語りで言明されている通り、若いころのような燃える情熱はもう失われつつある。彼は事件への介入に消極的だ。理解できない犯人の行動原理に対して成す術が無いということを十分に理解している。冒頭の語りは、「この世界の一部になろう(I’ll be part of this world.)」という一文で締め括られているが、観終わってから考えれば、この一文は闘争に参加する積極的な意志表明というよりも、消えかけた心の炎を再び灯そうとした自己暗示だろうと思われてくる。保安官としての仕事を全うし、安らかな自らの家庭を台無しにしないということ。保安官として、悪を理解して闘うのでなく、悪に物理的に肉迫せざるを得ない宿命に対する諦観のような一文である。

 映画の開始時点で既に無秩序な外的世界の事象に対してうんざりした諦めの色が見えるベルだが、カーラに約束したモスの保護にタッチの差で失敗したことで不条理に対する諦めは決定的となる。彼は退官することで「理解できない」混沌に肉薄することを辞め、「理解できる」穏やかな家庭へと帰っていった訳だ。ベルは引退を決意した後、叔父の元を訪れる。ベルは退官の理由を「私では力が足りない」からだと語った。すると叔父は「起こる物事は止められない。変えられると思うのは思い上がり(vanity)だ。」と返す。これは叔父なりの慰めだったのかもしれない。力が足りないのではなく、誰がやっても多勢に無勢だと。不条理を避けるには、「理解できる」、自らの支配力が多少なりとも及ぶ狭い世界に引きこもることが効果的であると、ショーペンハウエルが言っていた。表の世界はただ物理的・肉体的な闘争の世界であり、多少なりとも賢明さと良心を持ち合わせている者は苦痛を感じる。一方で、そういった闘争に本能で向かっていくような者にとっては格好の世界である。ベルも叔父も、狭いプライベートな関係と空間の中で余生を過すと決めた訳だ。

 一方で、シガーは自ら理不尽な物理的世界の一部となっているような人物である。他人の人生など構いなしに、自らの行動を妨げる要素を排除し、自らの行動規範に徹底的に従って目的の遂行へと動いていく。

 ベルのような人物がシガーを理解できないのは当然のことである。ベルは自らが傷つくことを望まず、他人を傷つけることを望まない。他人の痛みに共感して自分も不愉快を覚えるということは、ごく正常な人間の能力である。だから彼は世界に秩序を求める。多少の苦労で皆が傷つく機会を減らせるのならぜひともそうしたい。

 

 だが、シガーは自らの精神に絶対的な秩序を持っていることに既に満足しているから、外的世界に秩序を求めない。むしろ、彼は外的世界の秩序に損害を与えても、混沌の中で自らに不利益があろうとも、自らの精神的な絶対の規範への服従を優先する。それは彼がサイコパスだからこそ可能なことである。彼にとって他人はしゃべれる石ころに過ぎない。邪魔ならば蹴飛ばして構わないし、退屈しのぎに投げても構わない。彼は石ころだらけの世界で、自分で作ったルールに則ったスポーツを楽しんでいるに過ぎない。

映画「No Country for Old Men」を観て 3/5

カーソン・ウェルズ。彼はどこか調子外れではあるものの、社会欲に突き動かされて行動している。つまり、自らの有能さであるとか、立ち居振舞いの優雅さで人々から高く評価されたいと望んでいるのだ。彼がシガーを雇ったボスと契約を交わした後に言った、ビルの階数が1つ足りないという発言が先述の彼の特性を存分に物語っている。だが彼は同時に、シガーという人物の特性を正確に捉えている劇中唯一の人物でもある。彼が入院中のモスにシガーの人物像を語る場面で初めて、観客はシガーについての妥当な言語表現に出会うことになる。「彼の行動様式は金や麻薬といったものを超越している。」

 ウェルズは、モスに対して「シガーはお前の敵う相手ではない、楽観するな」と警告する。しかし彼自身もまたシガーに敵う相手ではないということを、彼は自覚していなかった。彼は、シガーがまさかモスと銃撃戦を繰り広げたホテルにのこのこと戻ってくるとは考えなかったのだ。だがシガーは待ち構えており、カーソンをあっさり殺してしまった。

 

 シガーという人物が他人と決定的に異なっているのは、外的世界の結果に目的を設定しないということである。冒頭にも書いたが、彼はただ自らの行動原理に徹底的に忠実であることのみを目的としているのだ。目的は金でもなく、殺しでもない。だから彼は自らが死ぬまで負けることがない。物語の最終盤で「モスとの約束を守って」妻のカーラを殺しに来る場面は象徴的である。

 

 この映画を傑作たらしめている第一の要素は、各登場人物にとって外的世界で起こる物事が完全に理不尽だということである。モスやベルにとってだけではなく、シガーにとってもそうだ。シガーの試みのうちいくつかは達成されなかった。まずホテル・イーグルにおける銃撃戦ではモスと金を取り逃がした上に足を負傷した。更に、モスをメキシコ人ギャングに殺された上に、金を持ち逃げされた。物語の最終盤ではコインの表裏を選ぼうとしないカーラに戸惑い、その上帰り道では信号無視の車に横から突っ込まれて重傷を負った。どの個人にとってもこの世界は不条理であり、意志と行為が外的世界に及ぼし得る影響は至って限定的である。その不条理な世界に対して三者が三様の行動様式をもって対峙するというのがこの映画の面白みだ。

映画「No Country for Old Men」を観て 2/5

 ベルがシガーとの肉薄に至る直前、カフェで別のベテランの警官と話す場面は印象的だった。二人は、近年の理解できない犯罪の原因について「若者が敬語を使わなくなった結果がこれだ」と共感する。つまり、伝統的な価値観を敬わなくなったことが原因だというのである。二人が、少なくともベルが本気でそう考えたとは思われない。単にそう腹落ちさせるしか術が無かったのであろう。まだアメリカ中西部が開拓期だった頃は、人の野蛮な欲望を行為に現すことができる機会も多かったろうし、自らや自らの家庭や仲間の生存期待性を向上させるという原始的な目的が、個人の内的な行動規範を決定づけていただろう。戦乱の時代を過したことがある人ほど、社会的な秩序の形成への強い欲求が生じるのだ。そうして作られた新たな秩序立った社会は平和をもたらすが、人は闘争への欲求を内にしまい込むか、他の活動に発散するかを選択しなければならない。平和と混迷は必ず交互に訪れる。ベルをはじめとする旧世代の人々は、平和な時代になぜ犯罪が起こるのかが理解できないのである。答えは人間の本能にある。

 モスもまた、自らのしがない、退屈な、貧しい日常に変化を求めようとして、とんでもない大事件に巻き込まれていく。モスを主人公にした判断は正しい。なぜなら、サイコパスではなく、自らの欲求に突き動かされて些細な悪事を働いて、どうしようもない大事に巻き込まれていくモスの有様は最も多くの人間に共感されるであろうからだ。人口の大多数を占める下流の人々にとって最も感情移入がしやすいのである。

 モスもまたベルと同じく、この争いに直面することを好まない1人である。物語の前半は、溶接工としての手先の器用さや狩りや戦争の経験に基づく銃撃のスキル、とっさの機転を発揮して、金を持ったまま追手から逃れようとする。しかし、シガーとの撃ち合いで深手を負った直後、メキシコとの国境にある橋から金の入ったケースを土手に投げ捨ててしまう。だがこれに懲りずに、メキシコの病院で回復した後は、妻に金を持たせて高飛びさせるという計画を実行しようとする。だがメキシコ人ギャングに居所を掴まれ、デザート・サンズ・モーテルにて銃撃戦の末殺される。

 モスの行動の動機はベルやシガーに比べて単純で明確である。金だ。そして、金を手に入れることでしがない暮らしを脱却して、妻により恵まれた生活をさせたいと考えているのだ。だが払う代償の大きさは遥か想像の上を行った。映画”蜘蛛巣城”の武時もそうだが、男の狩猟本能とか出世欲はしばしば大悲劇を生む。ベルは賢明だ。私は武時とかモスに共感はするけれども、見習いたいのはベルの行動様式である。彼もまた本能的な欲求を持つ人間であるはずだ。しかし、不幸な結果を回避する賢明さを持ち合わせているのである。この実生活における賢明さは、小説アンナ・カレーニナのリョーヴィンに通ずるところがある。

映画「No Country for Old Men」を観て 1/5

 アントン・シガーは絶対的な悪である。カーソン・ウェルズが言ったように、人間社会に普遍的な論理から逸脱している。シガーの行為の動機は自らの経済的合理性ではなく、また社会の中で高く扱われることでもない。シガーにとっては、自らの精神的な態度を行動の中で貫徹することが全てである。つまり、自らの決めたルールに従うこと。目的の達成に向けてあらゆる手段を尽くすこと。シガーの仕事に対する認識は、超一流のプロスポーツ選手のそれに似ている。動機らしい動機を持たないにも関らず、いかなる苦難に見舞われようと、目的の達成に向けて動く。

 幸福な家庭の構成員や、浅はかな動機で首を突っ込んだに過ぎない者に勝機はない。当然、前者は保安官のベルであり、後者はルウェリン・モスである。ベルは、自らの善の認識に従って、保安官としての務めを果たそうとする。彼の動機も又、金や名誉ではない。だが彼はシガーと異なり、サイコパスではない。つまり、他者に共感できる能力を持ち合わせている。これが悪との闘争においては致命的な弱点になる。サイコパスでないからこそ、共感できないものを怖れる。彼は自ら犯人を追い駆けているのではない。そうせねばならない状況になったから、保安官としての務めを果たしているに過ぎない。自らの家庭を保全しようとし、共感できる全ての他人を守ろうと奔走せざるを得ない。彼は事件など起こらなければ一番良いと考えている。その点で、映画”ヒート”のヴィンセント・ハナ刑事とは異なっている。ハナは本能の上で犯人を追い駆けており、自らそうしている。もしLAから殺人事件が消えたら、彼は退屈でたまらなく、この仕事を辞めてしまうような人だろう。

 ベルは、コーヒーを飲みながら妻とおしゃべりをして、多少の暇潰しでもあれば満足できる人である。得てして、幸福な家庭はこういった人物の下に生まれてくるし、共感し得ないものとの闘争を避けようとし、勝利を収めることができないのもこういう人物が必ず直面する状況である。

 ベルが作中でただ一度だけ、そういった日和見的な性向から逸脱した行動を見せた。それは物語の終盤に、モスが殺された現場を自ら再び訪れたシーンである。モスはシガーと出会うことなく、別に金を追っていたメキシコ人ギャングに殺される。シガーに殺されたという見方もあるだろうが、ベルが現場に到着する直前に銃撃戦の音がして、メキシコ人ギャング達が車で急ぎ去っていったことから、このように私は推測する。この仮説に従えば、二度目にベルがそこを訪れて錠がはじき出されているのを見たとき、シガーとの対峙を覚悟したに違いない。保安官としては、ただそこを去っても誰にも何も言われない。だが彼は危険を冒すことを自ら選んだのだ。だがシガーは危機一髪、ダクトを通ってベルと出会うことなく逃走に成功する。すんでのところで悪を裁く機会を逃したベルは引退を決意する。「力が足りない」と感じて。