yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

ベランダからの眺め

 汗ばむ。ジリジリした暑さに耐えかね、ドカドカと窓の方へ。出窓を開けると、涼しい風が部屋に入ってきた。ソファに横になり、テレビの音を聴きながら眠りにおちた。

 

 目を覚ますと、部屋は月明かりに満ちていた。テレビは相変わらず滑稽な音を立てて紗矢を苛つかせた。テレビのボタンを押しに行き、テレビを切った。ちゃぶ台にスコッチと飲みかけのグラスが置いてある。彼氏が思い出された。勝手に酒を飲まれたということ自体よりも、未だに彼女にズカズカと踏み込んで来る彼がなさけなく、苛立たしく思われた。一度なりとも惚れた人には立派に去ってほしいものだという期待が紗矢にはあるのだ。彼の優しさも、全く私への未練を紛らすためのものに見えた。一度、彼はいかにも誠実な態度で訪ねてきた。あれは私が1日中何もない日の午後3時くらいのことで、何らかの刺激を待ち望んでいたところに丁度彼が来たので、ちょっとした期待、それは復縁というわけでは全くなく、ヒマつぶしになるという意味でのものだが、そういうものを持っていた。
 彼は全く完璧な元彼を装っていた。彼は私の様子に安堵し、かなり話は弾んだ。でもそれは長く続かなかった。彼はだんだんと、この時間の終りがどういう結末をむかえるのかという恐怖にとりつかれはじめ、話は次第に上の空になりはじめたのである。紗矢はそんな彼を思いがけず可愛いと思った。話は途切れがちになり、その間には気まずい空気が流れはじめた。彼は耐えかねたのか、「じゃ、そろそろ帰るわ」とか言ってあっさりと帰ってしまったのだった。彼は紗矢と誠実で楽しい関係を築こうと努力していたようだが、その努力が紗矢には可愛くもあり、またぎこちなく、重苦しく思われたのは事実であった。というより、その場では完全に気まずさが空間を支配していたために、全くと言ってよいほど可愛さなど感ずる余裕はなかったはずなのだ。それは、彼女が今現在の追憶の中でやや美化しながら「考えついた」せめてもの慰めにすぎなかったかもしれない。いや、慰めというよりは、彼に対する哀れみの気持ちがそれを思いつかせたように思われた。結局のところ、彼女は彼のことを少しも愛していないどころか、手のひらでコロコロと転がして遊んでいたのだが、彼のたまに見せるこういう誠実さが重々しく思われ、途端に面倒臭くなるのだった。その蓄積が根本的な別離の原因であり、他の気まずさや喧嘩はさしたるものではなかった。
 紗矢にとって彼は愛情の対象になったことは一瞬たりともなかったのかもしれなかった。紗矢は彼にあまりにも洗練を要求しすぎるし、彼は応えようとしすぎたし、また、応えられないのだった。紗矢にとってはいっそ、そんな努力などしてくれずに勝手な方向へ、つまり仕事や趣味や何でもかまわないが、そういう方向に向かうことである種の男らしさを彼に身につけてほしいと望んでいた。もちろん、彼女はこんなふうに自分の望みを明文化してみせたことは一度もないし、そういう男に「教育して」やろうという気概など全然なかった。この点では紗矢はごくありふれた、男をおもちゃぐらいにしか思わない今ふうのわがままな女であったのだ。

 

 気がつけば、窓から入ってくる風が体を心地よく冷やしていた。紗矢の心はこんなふうに、風にゆらゆらとゆれてよく移ろった。くよくよと考え込み、もう人生など終わった方がいいと投げやりになって、次の瞬間には素晴らしい偶然の一瞬に出会って、この世の普遍的な美しさを自分だけが知っていて、くだらない人間社会から1つ抜きん出たレベルに自分が位置しているような気持ちになるのだった。紗矢は何もかも許せるような心地になり、グラスに残ったスコッチを一口に飲み干すと、もう一杯なみなみと注いだ。注いでいる最中はスコッチの液の色をのぞきこんでながめ、グラスを顔に近づけると、風が吹く窓の方を見た。夜空だけが見えた。網戸越しに白んでいるのがもどかしくて、1口飲むとそのままベランダへ出る。
 夏の夜空は東京の夜にはめずらしく澄んでいた。このベランダからの眺めは、東京の夜景と表現するだけで当たりすぎるほど、いや、もしかしたらそれを凌ぐ壮観さをたたえているのかもしれなかった。まず眼下には全くと言っていいほどの闇が広がり、森の縁どりの向こうを東へ見やると、東京から横浜に至る全ての街々が網羅されるのであった。紗矢は摩天楼を見下ろしてお高くとまった気持ちになるのが好きだった。それは、ロマンチックといえばチープすぎ、切ないといえば純粋すぎるとにかく満たされた想いだった。
 面白いことに、ここは確かに丘の上のマンションであり海までかなり離れているのだが、海の香りがするような気のする場所であった。事実、紗矢は目を凝らせば摩天楼の彼方に水平線が見えるような気もするときもあるのだった。

 

 そのとき、ふいに右隣の出窓が開き、隣人が出てくるようだった。紗矢の一人きりの世界が急激にしぼんでゆき、彼女は部屋の中へほとんど機械的に戻った。風呂に入ろうか、寝ようかと、ソファーで頭のうしろに両手を組んで考えた。今日は思考がうすぼんやりしていることが、自分でよく分析できた。こういうときは、何か失敗をしそうな予感がし、それはだいたい当たるのだった。