yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

社会と個人の関係についての歴史的論考

いつも言い分をコロコロと変えるのは、個人ではなく世間の側である。

 自然人の主張は何世代経ようとも終始一貫しているものだ。変わるのは言葉の取扱いや所作だけである。ゆえに、人間の本質に迫るには、表面的なスタイル(形式)の変遷を並べ立てるだけの学び方はむしろ逆効果である。

 我々人間が豊かに暮らす為には、人間社会が人間に合わせるのが道理である。

 ここで、原始時代の人間の生活ぶりを引き合いに出し、こう反論される方がいるかも知れない。「人類は各々が暮らす環境に合わせて生活の形式と道具とを発展させてきたのであるから、その時々の社会環境に対しても適応しつつ発展に寄与するのが真当な社会人というものではないのか。」と。

 ここに、現代人特有の自然環境と社会環境の混同が顕著に現れている。

 極論すれば、社会環境は道具なのである。国家も法も道路もビルも、本来的には全て人間が自らの生存を賭けて生み出した道具なのである。

 一方で自然環境とは、宇宙の全てであり、そこを支配する法則である。我々は自然環境から逸脱することは、一瞬たりとも、全くできない。例えば、エアコンを用いて部屋の中を温かくすることは、自然環境に道具をもって反抗することだと思われるかも知れないが、エアコンは自然の法則に則って部屋を暖かくしたのであり、自然環境から逸脱した事象であるとは言えないのである。自然環境こそが、我々にとって真に唯一の支配的な条件であるのだ。

 すると当然、社会環境は自然環境の中に含まれるわけだ。しかしもちろん、2つの異なる言葉でもって、2つの異なる概念を指し示している。

 社会環境は、人間の作り出した有形・無形の道具の蓄積の総体である。無形の道具には、言語や人間関係、組織、契約などが含まれる。

 特に近年になり、認識の上で人間と社会環境の地位の逆転が著しいように思う。本来的には、人間の為に社会環境が有るはずなのだが、社会環境が急速に複雑化したために、そこへの適応に多大なる努力を払うことで自らの生存を保っているという様相である。社会環境の中で生きているというより、社会環境に支配されているといった感である。この断絶の根底には恐らく、我々の主権意識の欠如があるように思う。道具の都合に合わせて我々全員が心身の形を変えざるを得なくなっている・・・。その認識の根底には、我々が道具を改造し運用する主体でもあるという実感に乏しいという事実がある。

 なぜそんなことが起こってきたのか良くわからないが、少なくとも日本においては文明人が主権者としての性格を認識の上で失い、単なる自然人へと還っていっているという傾向は確かに認められる。

 生まれてこのかた、外的条件を原因とする生死を賭けた戦いをしなくて済む。国家という存在によって、自らの生存可能性が著しく増しているという事実を感じる機会がないから、有難みも感じることが出来ない。

 現代日本において死を感ずる機会はといえば、仕事が立ち行かず、衣食住に困るときであるが、そのとき起こる戦いはなんと社会との戦いなのである。すなわち集客・就職活動…。我々は大昔、自然環境を相手取って、社会を道具として生存を賭して戦っていたはずなのである。

 我々は自らの生存可能性を増すために集結し、各々の全てにとって利益となるような契約を全員が国家と交わしたのではなかったか。そして今日も現にその契約のおかげで我々は生存可能性を増しているのである。

 しかしながら、我々は余りにも安心・安全な暮らしの中で、生存の為の団結という意義を本能の上で見失ってしまった。また、余りにも良く出来たシステムとそのマニュアルによって、社会の本質に対する熟考の切迫した必要性とそのやりがいを失ってしまった。

 それと引き換えにして、我々は社会環境の要求にただ従うことを覚えた。社会環境という先人達の知恵が詰まった、我々全員の生存に役立つらしい良く出来た装置の一歯車として、すっぽりと適応し忙しく回ることを覚えたのである。

 我々は確かに、生存の為に国家を作り、各々が契約したのであり、その国家の維持は当然、自らと他の全ての国民の生存に有利である。しかし、今や国家が道具として我々にもたらす生存可能性の増分が隠されているうえ、その装置の巨大さと複雑さゆえに我々がそのあり方について考えたり、手を加えたりすることが甚だ困難で実感に乏しい以上は、我々は認識の上でやはり社会環境を支配的な条件として、社会環境の中で他の誰かと金をもぎ取り合って、おおよそ敵対関係に陥っているのである。社会環境の外は我々にとって切迫したものではすでに無くなっている。巨大な装置は我々が歯車として回っている間に、いつの間にかその脅威をはね退けてしまい、我々は自分が何にどの程度貢献したのかも知らぬまま、元の仕事に精を出すだけだ。

 仕事は本来的には、自然環境における生存闘争であり、それは今日も事実である。しかし、自分がいつどこでどのように社会環境の変化を担い、生存闘争に貢献したのかについて盲目である故に、人間同士の経済的闘争という性格が認識の上で事実と化し、我々はその楽しくなく労力の大きい「仕事」という名のスポーツに生存を賭けて参加することを余儀なくされているのだ。

 その中で、我々は死を忘れ、生を忘れつつある。それを原因として、表向き快活な人当たりの良い現代人の無意識の領域に恐ろしい暗黒の癌が育成されている。

 それは、一個人と社会環境との、すなわち人間と道具との地位の認識の逆転である。我々自身にとって、もはや我々が社会環境の道具に堕ちてしまっているのだ。

 この認識の病を打破する為に、我々はあらゆる物事を学ばねばならない。

 教育者が、生徒が社会環境の中で生き抜く術を教えることに集中すればそれだけ、この病を増長させる結果になる。社会環境への適応を中心的な関心事に据えればそれだけ、この病を増長させる結果となる。我々は社会環境を克服すべき敵と見誤ってはならない。その戦には一個人にとって決して勝機が無いのであるから、必ず「自分なんて」という劣等感を生涯引きずり、自らの人生とその原動力たる自らの精神をくだらない道具に堕としめることになり、この逆転は戦いから身を退かない限りやすやすと解消されない。また、仮に立身出世に成功したとしても、やはり自らを他人と比較して「使い勝手の良い道具である」と思うばかりで、病は解消されていない。

 この病は言い換えれば、我々が認識の中で、自然人として社会環境において生きてしまうということである。単に自然人として生きる文明人にとって、社会環境は只々鬱陶しいだけのものである。自らの自由を締めつける外的条件でしかない。その人は、この外的条件の下、生活上の技巧を用いて自らの生存を保つのであって、社会環境はその人の生を脅かす敵対的なものであり、自らの生存可能性を増やす道具であるというよりは、自らの生活の場であり、経済的闘争の場であり、金を狩る為の場である。まさに、原始生活において人類が自然環境との間に築いていた関係を、現代人は社会環境との間に築いているのである。