ああ、疲れた。昨日はほぼ丸一日中寝ていた。悪い夢もいくつか見たような気がする。朝のコーヒーを入れて、筆を走らせてみる。
そもそも、毎日随筆を書くということは、私の毎日の生活で起こる出来事が知覚されたものや、私の頭に浮かんでくる考えや記憶などが1日1時間で書き切れる筈はないということが前提されているのだ。でなければ、私が書きつけているものの一部に単なる文字の羅列が含まれることになるだろう。※毎日書いてみると又、自分の文章が自分なのかそうでないのかわからなくなってくる。そもそもこれを始めた動機が生計を立てることなのだから、結局は金を目掛けて書いているのではないかという気さえしてくる。こうやって書いている内に、書かれた文章が私の内面から湧いてきたものだという気がしてくる。具体的には※を付したところからである。
私が再三書いているテーマとしては、金銭を変数とする生存条件と芸術活動が逆を向いていることとか、社会の一員として見られたときの個人と個人そのものの間の隔たりが苦悩の種であるとか、宇宙の中に有る社会についての基礎論とか、そういったものであろう。私はこういった分野についてまだまだ先達の意見を聞いてみたいという気がするのだが、歴史上こういった分野の先達には一体誰が居るのだろうか。私が今まで出会った人の中から様々な考え方を引用してみよう。
<ソクラテス>
人間の知を神の知と対比させ、人間の慎み深さを善とする彼の倫理は、ある意味で私の社会と宇宙の対比に似ている。本当に打ち破れないものを彼は神とし、私は宇宙とした訳である。ただし、社会が作られたことが一体いかなる生物学的な必然性を帯びているのかが問題である。つまり、社会は道具か、自然か?人間は道具を扱う生物である。又、道具の改良と、一方では取扱いの習熟ということが有る。前者は社会参画に、後者は社会への適応に対応する。ただ、社会は人が作り出した最も巨大かつ特殊な道具であり、それを道具と呼ぶことにも違和感を覚えるほどである。それは、改良の手を加える為にはまず適応せねばならないという点で他の道具と異なっている。又、生まれつきその道具の中に我々自身が組み込まれているということが有る。社会はある意味で自然の側に有るように感じられる。我々はそのように教育されている。
ソフィストは、社会に適応させる教育者であり、当時の民衆からは歓迎されていただろう。現代ではその任を学校の教師や我々塾講師・家庭教師が担っているのである。
だがソクラテスは真実そのものへ向かっていこうとした。我々の生存条件たる社会への適応が、社会的真実をそのまま真実と捉えてしまうようなことであってはいけない。社会の言い分と真実そのものの隔たりをよく吟味し、また自らの知が完全には全く及ばないことを自覚すべきである。
彼は万人へのそういった教化を目指したので、当然嫌がられ、死刑となった。