yuuki_yoshino’s diary

ようこそ。自作の詩・随筆・小説・楽曲を置いておきます。

近しい人ほど良く知らない 2/2

 一人の人間は、根本的に知られるということがない。自らのことを、他人の方が良く知っている部分も有るという人が居るが、それは違う。そういった部分というのは、つまりその人自身がどうであるかということではなく、むしろ社会との関連の中でその人が求めらている役割とその人との関係や、ある性質について他人との比較において、程度の大小などを論じているのである。

 つまりハイデガーが言うところの、平均的日常性から一人の人間の個性を導いているのだ。だが実際には、実生活で示される平均的日常性は個性から発現してくる1つの現象として紐解かれなければ、本当にその人自身へ至る道を進んではいない。その為には、自らが唯一経験できる自らの生活において、自然人としての自らと社会人としての自らの隔たりについてよく知り、他人も又同じ筈であるという仮定の下で他人についての解釈を作り上げていく外はあるまい。それが、可能かどうかは全く別だとして、我々が他の存在者に近づき得る唯一の通路である。もっとも、公共の場においては個人がそれそのものとして出来することは全く期待されておらず、社会人としての個人の知覚可能な像をを分析することで役に立つかどうかだけを問題にすれば良いのである。また、自らが社会に対して及ぼす影響から自らの有り方を逆算するような認識の方法は、ある組織の歯車として円滑に機能する為には非常に合理的に思われており、それは全くその通りである。だがそういった人間は概して共感を疎かにして、全体の福祉をまず第一に考えるために、もはや人間の人間性を見たくもないのである。自らを含めた一個人についてその善悪を議論するときに、社会に対して及ぼす益だけを尺度とするために、人間の人間性を社会の為の道具と考えるに至るのである。

 人間の性質(本能)として社会への適応がふさわしいか、という問いに対しては、私はいいえと答える。なぜなら、我々が避けることが出来ないものは宇宙の側にあるからだ。社会はむしろ人間が作り出してきた産物の蓄積であるから、我々はこれを変えたり、新たなものを追加したりする余地を持っているのである。