自らの認識から出でた自らの規範に従おうとするとき、私は常に世間の反発を感じてきた。
組織は、個人を管理しようとする。個々人の動機や行為を予見し、組織の持続性を担保しようとする。映画「The Matrix」シリーズにおいて、仮想現実The Matrixの設計者がそうであったように。
管理を通して個人の有様を制限することは、決して悪意に基づくものではない。人間を総体として、統計的に見るとき、一般的でない個人(The Matrixにいうアノマリー)は予期せぬエラーを組織にもたらすから、常に危険である。組織の崩壊は、組織の構成員の生存を危うくする。だから、一般的でない個人は、一般的な個人から見たときの行為の予見可能性がなく、組織の計画的な円滑な運行に支障となり、組織の持続可能性に水を差し、究極的には組織の構成員の生存期待性を減じることになる。そして、このことは、一般的な個人が一般的でない少数派の個人を生理的に嫌悪し、迫害することの正当な理由となっている。
学習塾で働いていたときのことを思い出す。目的は、生徒を受験戦争に適応させ、親の満足を勝ち取り、塾という組織の生存を図ることであった。教育とは、個人を公益に適合させることをいうのか?では、民主主義は幻想であったということだろうか?構造に取り込まれ、構造の持続の為に使用されるだけでは、もはや人間ではない。だからと言って構造をぶち壊すような、パンク的なことをやりたかったのでもない。
私がやりたかったのは、学問によって認識を拡充し、そうして紡いだ自らの認識に従って選択し、行為することを生徒に奨励し、そのような個人こそが真に公益の為に何事かを成せるのだということを実感してもらうことだったのだ。
だがしかし、偉そうに口角泡を飛ばしてみたところで、私自身の人生とて、個人と組織のジレンマ、同じ袋小路に突き当たって、もがいているとしか形容しようのない様相を呈している。
さて、問題はそうした現状を嘆くことではなく、少数派たることを自覚する私が、一体どうやって組織的活動に寄与し、自らの生存を戦っていくかという、この点である。
私は、自らの認識から出でた行為でもって、その戦いをやり遂げたいと考えている。そして、その行為が実効性(経済的利益を生むこと、かつ、他者の満足に資すること)を持つものでなければならないことは痛いほど承知している。
一方で、今日の組織のほとんど全ては、自らの考えを持たず、ただ闇雲に組織の構造的な規範に従って、忙しく・長時間にわたって手を動かすことができる個人を求めているように見える。(私の汚れた履歴書を見てみればいい。私以上にこういうことを実感した個人はそうは居ないはずだ。)
私は、まだ若いから、まずは従うことを覚えようとか、周りに迷惑を掛けないようにしようとか、そういうカトリック的でサラリーマン的なことを言っている内に、あっという間に活動する気力も体力も無い老人になってしまい、日銭を稼いで辛うじてメシを食いつなぐだけの単純労働に使い果たした時間を後から嘆くだけのような気がする。
私の戦略は、自分でも笑ってしまうような、とんでもない暴論のような、思考の飛躍としか言いようのないものである。絶対に、自信を持ってプレゼンすることなどできない代物だ。
仮面を被ること
紳士を演じること
負の感情を見せないこと
真意を隠すこと
表で従い、影で欺くこと
嘘を悪いことだと言う人がいる。とんでもない。本当の悪は、自分のついた嘘を自覚していないことではないのか。
この戦略を私が放棄する、その唯一の安息場は、芸術しかないのだ。
そしてその芸術も今、生活の端に追いやられている。
だがまだだ。まだ終わらん。
ろうそくの火は強風で消えかかり、燻りの煙を上げているが、数えきれないマッチがそこかしこに散らばっているのが見える。そして、そのろうそくは、私の人生と同じ長さだ。