yuuki_yoshino’s diary

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キルケゴールの「死に至る病」について

 キルケゴールの「死に至る病」は面白い。絶望は人間全員に共通の状態であるという。それは、内面的な自己すなわち精神と、外面的な自己すなわち肉体とその所作や、それを基に形成される周囲の人々からみた自分の像、その2人の自己が決して一致し得ないというところから来るものである。

 さて、人間の本当の望みは、自らにとっての自己すなわち精神の主導の下に、自らの生活を創作することだろうか?キルケゴールと私の考えは一致している。恐らく、大部分の人にとってはそうではない。

 その大部分の人々にとっての望みは、むしろ周囲からみた社会的自己に内面的な自己を「高めていき」、その努力によって社会の間で「高く扱われる」ことである。

 というより、こういった人々にとっては外面的な自己こそが自己なのである。世間からみた自分、友人からみた自分。とにかく、他人に認識されている自分が、自分である。内面的な自己がたまに意識に上ると、それは「わがまま」とか「気まぐれ」とか「非合理的・非効率的」とかいう評論を自らに加えられて無かったことにされたり、克服されるべき弱さとして認識され、自分を更に社会的自己に一致させていく強力な動機となったりする。

 とすれば、キルケゴールの言う通り、絶望にも2種類ある。

 1つは、実生活の衣食住と精神的自己の板ばさみに遭い、肉体の生存と社会的な生存を持続させる以上は、自らの精神の主導の下に肉体を動かすことをあきらめなければならない、という絶望である。この絶望の中で生き続けることをカミュは反抗と呼んだわけだ。

 もう1つは、精神的な自己をいかなる努力をもってしても捨て去ったり忘却したりすることが出来ないという絶望である。こちらの絶望を抱える人々にとっては、精神的な自己は社会的な自己を汚す「弱さ」であり「病」である。

 

 人は一匹狼には成れない。社会的生物であるが故、必要とされることが無ければ病むのは当然である。どちらの絶望にも共通しているのは、自己と、自己からみた他人の集合、すなわち世間との断絶である。前者は、自らの精神を外へ開いていくことが外的条件に一般的には適応しないという意味の断絶。その時その場所で、自らであることが出来ない。後でそれが痛ましい。後者は、外的条件特に社会的な要求に応えられない、あるいははみ出している自らの精神性を自らの病と認識することで、自らが社会人失格であると感じられる断絶である。

 いずれも同じような状況に置かれているのだが、それに対する認識が違う為に、互いに打ち解け合うことは難しい。

 最近の若者が鬱になるときは、他罰的傾向が強いと聞くが、これは前者が世代を下るごとに増えてきたということだろうか。